血、汗、誰も…親ですら知り得ない涙の跡…。

これまでの人生で、掴み損ねた夢や恋…そして勝利…。
体力、気力共に、最も充実する壮年期を迎え、今それが緩やかに過ぎ去ろうとしている。
偶然に知り得た人は言う。
『凄いですね!』
『いい趣味ですね!』
言われる度に、自身の深淵で何かが蠢めく。
…モゾリと…。
やめてくれっ、凄い? 何が分かる?
趣味? ふざけた事は言わないでくれっ
なら何なのだ?…自問自答する。
骨身を魂を削り、全身全霊をかけ戦果を得る。
敵将を討ち、その御首級を掲げたところで誰からの賛辞を得る事もない。
ただひたすらに自我の満足感、充足感を満たす為だけに苦行を課す日々。
賛辞などいらぬ、ましてや世辞など聞きたくはない。
この時代、この地に産まれ、この世で生きた証しを…証しを残したい。
笑われようが、理解されなかろうが、譲れないものがある。
ただ、それだけだ。
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全身の感覚が研ぎ澄まされていく、だが聴覚だけは麻痺しているかの様に何も聞こえない。
鋭い眼光をしている訳ではない、周りから見ればむしろ、虚ろな眼をしているようにも見える。
ただ、その眼の奥には狂おしいまでの力が滾っている。
何も聞こえない、だが、場を支配する空気感、空気の流れで全てを察知し、戦場へと歩を進める。
眼前に広がる圧倒的な質量、見えている…と言えば語弊があるだろう、全身で感じているといった方がしっくりくる。
その圧倒的、絶対的な存在感を誇る〝何か〟が、語りかけてくる聴覚ではなく、精神に…。
〔よもや、この短期間にここまで辿り着くとはな…ただ悲しいかな、非力にして矮小なる生き物よ、まだ早い…お前には、まだこの場に立つ資格は無い。〕
〔立ち去るがよい。〕
まるで魂を砕き、こちらの存在を根底から否定する様な圧力を加えてくる。
その時、自身の深淵で蠢いていた〝何か〟が形となり、全身を包んでいく…そして生身の肉体だけでは無く、精神にまで侵食してきた〝何か〟が自身の全てを支配していく。
〔 ほほう、狂気とな…いつぞや振りか。 〕
〔惜しいな、実に惜しい…矮小なる生き物よ、早々に狂気を放棄するがよい。今ならまだ間に合う。身の丈に合わぬものに頼れば、いずれは凶徒と化し最後には全てが消え去る…お主の存在さえもな。〕
一瞬絶望的なまでの恐怖が押し寄せてくる。
だが、次の瞬間、全身を包み精神にまで侵食してきた〝狂気〟が全てを相殺する。
そして、暴力的なまでの怒りに似た感情が口を開かせる。
《クククッよく喋るな、あんた、古の神話に出てくる竜か?それとも神そのものか?ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよっ。俺は絶対に退かん。》
〔狂気を飼い慣らしておるか…いいであろう、自身の存在全てが消え去る可能性を承知してなお立ち向かおうとするその意気や良し…お主の蛮勇、見届けてやろう。〕
〔但し…忘れること無かれ、全ての戦果は相応の対価を支払った上で得ることが出来るという道理を…。〕
最大限に心身を昂揚させた状態で、眼前にそびえるは287.5㎏のバーベル、もはや何も考えることは無い、己を信じ一心不乱に引き切るのみ。
行くぞっオラァァぁぁっっ!!!
ファーストプル、アドレナリンの分泌量に比例し最大限の出力が発揮される。直近にとても280㎏が挙がらなかったとは思えない速度でバーベルが浮く。
…浮く、浮く、 ただ10㎝程浮いた時点で気付く、決して報われることの無いこの試技に。
絶対に引ける事の無い状況、デッドリフトのフォームや物理的法則を理解している人なら見れば分かるであろう…だが、精神にまで侵食した狂気はそこで引き返す事を許さない…。
脚が伸びきった無茶なフォームで、重力に抗い続ける。
何も考える事は出来ない、全身に滾る全てのエネルギーを費やしてバーベルを引く、引く、引く。
やがて、全ての余力が尽きた時、物言わぬ鉄塊は身体を離れ、地面に吸いこまれるように落ちていく。
昂揚した心身に痛みは無い、そして一敗地に塗れた状況も何故か心地良い。
何故ならば、絶対に戻ってくるからだ。
あいつを倒しに…絶対にこの場所に…。