ミルフェのブログ
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8月に帰省して小学校の同窓会に出席しました。コロナ禍で3年、見送りばかり。区切りをつける意味で決行。案の定、前の週になって濃厚接触者多発。帰省のドタキャン。中にはワクチン接種会場にスタッフとして駆り出され、集会への参加を自粛せざるを得なくなってしまった人も。3年前20名の出席予定だったのが6名になりました。

 

68歳と69歳の面々です。この年で小学校の同窓会があること自体、奇跡に近いものがあります。発起人はてんちゃん。地元で会社勤めと農業をしながら生きてきました。ある日、幼馴染のK君から「俺も、一度でいいから同窓会というものに参加してみたいなあ」と言われたのがそもそもの始まりでした。

 

K君は中学を卒業して地元にある自動車メーカーの下請け工場に勤務しました。真面目に働いて部下もでき、人生の折り返し点に来た頃、周囲で高校の同窓会という話題が出始めます。でも、彼にはその機会がありません。中学校まで一緒に過ごしてきたてんちゃんに、ある日彼がぽろっと、そういったのです。

 

男気満載のてんちゃんは、友人のために次の夏、同窓会を計画しました。それを伝えた直後、K君にがんが見つかります。ステージ5。「来年の同窓会に出たい!」懸命の治療が始まりました。開催直前、てんちゃんは奥さんに「僕が車いすで連れて行くから主治医の許可を取ってください」と懇願。しかし、K君の出席はかないませんでした。

 

たまちゃん、目のくりくりしたかわいい女の子でした。中学校の理科の時間、教科書を読んでいて喉の不調を訴えました。声が出ないというのです。闘病が始まりました。筋無力症という病名でした。地元で一番大きな大学病院でしたが50年以上前の医学では、まだわからないことが多く、高校に入学することなく還らぬ人になりました。

 

T君。地元の国立大学に現役入学した秀才でした。新入生歓迎コンパで事故が起き、真っ逆さまに階段から転げ落ちたそうです。すぐに救急車で運ばれ懸命の治療が行われました。後遺症は残りましたが、実家に戻り両親と農業に従事するまでに回復。両親を看取った後は一人暮らしでした。地元に残っていたてんちゃんが小学校の同窓会を企画した時は真っ先にT君に相談しました。彼は、「僕たちは昭和28年と29年の生まれだから、289会にしたら」と提案しました。ある冬の朝、玄関で倒れていたのを発見されたそうです。脳梗塞でした。

 

6名で行った同窓会は、彼らに捧げる黙祷から始まりました。

 

新しい出会いもありました。小学校二年まで一緒に過ごしたやっちゃんが、60年ぶりに仲間と再会したのです。彼にとって人生初の同窓会でした。地元の高校を卒業後地場産業に就職。大阪に転勤した後、会社倒産の憂き目にあいます。職探しをしていたら当時通っていたスナックのオーナーに見込まれ水商売の経営者に。数年後工場勤務を始めますが、未熟児として生まれた彼の股関節が激務に耐えきれず人工関節に。その後職場復帰し、現在も大手ゼネコンの工事現場で現役の警備員をしています。父親のDNAを継いだ彼は、写真で見る限り黒光りする坊主頭にいかつい目。こわもてオーラ出まくりの風貌です。

 

てんちゃんは、この新入りを迎えるにあたり、電話でテストを行いました。開口一番、「背中にマンガとか描いてないか」と質問されたやっちゃんはドキッとし、でも丁寧に「そんなものはありません」と答えたとか。その後、二人の話が弾み、「ところでお前指は何本あるんか」と聞いたてんちゃんに「六本です」と答えたやっちゃんは「合格」だったようで、てんちゃんは「お前、俺のうちに泊まれ。一緒に同窓会に行こう」と誘いました。

 

小学校の仲間と名刺交換などしたくない

小学校の同窓生とは、本音の心で付き合いたい

小学校の同窓会を小馬鹿にするようなやつは勘弁できん

 

小学校入学から60有余年。「アラ古希」の仲間たちは、九州ののどかな集落にあった小さな小学校で、お互いを「~ちゃん」と呼び合っていた原点に戻り、これまでまとってきた社会的な鎧から自分を解き放ち、先に逝ってしまった仲間を偲びながら「生かされている者」としての絆を深めていくことでしょう。