6日間のポーランド旅行から戻って、帰国準備と就活準備に追われる日常が再来しました。SPIの勉強と自己分析や自己PRを考えているうちに1日が終わってしまいます。旅行したいから、と留学ビザ期限ギリギリまで居座ったことにより、必要以上に就活に対する焦りが出ています。大学のキャリアセンター担当者から、帰国前でもできる対策についてアドバイスをいただき、それを基に取り組んでいるので、間に合うと信じたいです。留学生の皆さん、就活もちゃんとしたいなら、年末には帰国しましょう。(笑)

 

最近、プラハが台北と姉妹都市協定を締結し、「中国は信用できない」とぶった切ったことで、チェコがニュースをお騒がせしたようですね。チェコって小国ではありますが、結構思い切ったことをするんですよね… 国民性は、どちらかというと謙虚で控えめ、と日本人的なのですが、市長さんが(あくまでも国のトップではない、というところがミソ)、経済大国を相手に「信用できない」発言をするとは何とも潔いです。「極めて遺憾」が流行語大賞になりつつある某国の政界ですが、もうちょっとはっきりと意思表示と行動をしないと、国際社会では生き残っていけませんよ~。僕が住んでいるブルノはどうなのかと思ったら、姉妹都市は欧米にしかないので、「プラハに続け」とはならなそう。てか、ブルノとウィーンが姉妹都市だったと今回調べて初めて知りました。(笑) 

 

前置きが長くなりましたが、本題のポーランド旅行記を。一番の目的はアウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館訪問。負の遺産ということで暗い場所ではあるけれど、ブルノからバスで4時間なので、やはり一度は留学中に見ておかないとね。通常ツアーだと思って申し込んだツアーが、まさかの6時間スタディーツアーだったため、通常よりも遥かに多くの施設を見学して、みっちり勉強して来ましたよ。

日本では、「アウシュヴィッツ強制収容所」と言われていますが、正確にはこの地には収容所が3つあり、アウシュヴィッツ第一収容所、第二収容所(ビルケナウ)、第三収容所(化学工場が置かれたモノヴィッツ)をまとめて、「アウシュヴィッツ」と呼んでいます。現地に行くとわかるのですが、この区別はかなり重要で、第一収容所とビルケナウでは生活環境が全く異なります。第一収容所は、元々ポーランド軍の施設を利用して造られたため(ドイツ軍の経費削減が目的)、レンガ造りの建物内に住めるのですが、ビルケナウは、収容者に造らせたバラックでの生活となるため、生活環境は遥かに劣悪です。「ビルケナウに比べたらアウシュヴィッツはホテル」と言われていたとか。

 

また、日本では「アウシュヴィッツ=ユダヤ人」のイメージが強いですが、見学ツアーでは、ユダヤ人だけが収容されていたわけではなく、むしろ最初の収容者はポーランド人であったことが強調されていました。ユダヤ人が収容されるのは、「ユダヤ人問題の最終的解決」が可決されてからになるので、それまではポーランド国民がここに収容され、アウシュヴィッツの名はポーランド人の間で恐れられていたそうです。ナチスドイツの定義では、ポーランド人をはじめとするスラブ人も、ドイツ人に代表される「アーリア人」より劣等だ、という考えから、彼らも迫害の対象だったのです。ポーランドにしてみれば、自分たちの土地に悪名高い収容所を建設され、自国民も迫害されていたわけですから、被害者としての側面を強調するのは理解できます。

 

訪問した第一印象としては、思っていたほど暗く、精神的にダメージを受ける、というものではなかったです。こんな感想を抱いてしまってよいのかは疑問ですが、何も解説を聞かなかった場合、そこにあるのはただ「広大な敷地と空っぽの箱物」です。犠牲になられた方々の数多の遺品も、何も知らずに見れば単に「ケースの中に入れられた物の山」でしかありません。アウシュヴィッツで75年前に何が行われていたのかは、あくまでも語り部達の話を聞かなければ、「ここがアウシュヴィッツ」と認識はしていても、想像はできません。これこそ、まさに「歴史の風化」なのだと実感しました。そこで何があったのかを伝える人がいなければ、「負の遺産」と言えども、空虚な建造物や日用品の山という「物」に過ぎないのです。今まで、「戦争の記憶を風化させてはならない」という警鐘をなんとなくの気持ちで聞いてきましたが、その言葉の意味と恐ろしさを実感できた体験でした。

 

また、最も大きな学びは、「果たして人間は過去に学べるのか」という問いを自分なりに考えられたこと、そして日本で今まで受けてきた戦争教育に対する疑問を抱けたことでした。

 

アウシュヴィッツの敷地内にも掲げられている有名な言葉に「Those who cannot learn from history are doomed to repeat it (歴史に学べない者は、歴史を繰り返す運命にある)」があります。僕も、訪問前はこの言葉を信じていましたが、実際に恐ろしいほどまでに効率化された虐殺システムを目の当たりにし、現代社会に想いを馳せた時、果たしてこの言葉は真実なのかを疑い始めました。

 

負の歴史を学ぶ時、人々は口を揃えて「戦争はもう繰り返してはいけない」と言いますが、これによって「日常」と「戦争」を切り離し、自分と戦争の間に距離を置く姿勢が感じられるように思います。果たして、「戦争」は「日常」の対極にあるものなのでしょうか。ホロコーストは極端な例に思えますが、人間が似た者同士のコミュニティで生活し、利害関係の一致しないものは対立関係に置くという性質から生じたことだと思います。今学期の授業で、アンダーソンという政治学者の「ネイションは想像の共同体」という理論を学んだのですが、ホロコーストは、これが過激になったものといえます。しかし私たちも日常生活の中で、「想像の共同体」に接していることが多くあります。例えば、「日本人」という分類で共同意識をもつこともそうですし、似た者同士で交友関係を作りたがる性質もこれに当てはまるかもしれません。このように考えると、「戦争」は日常からかけ離れたものとは言い難いですが、私たちは、日常生活で起こっている対立は「ホロコーストほど酷くない」と逃げ道を作っているように思えます。こうした甘えがある時点で、人類は歴史から何も学べていないのではないでしょうか。

 

更に、日本の平和教育でありがちな「戦争はしてはいけないと思いました」や「平和な時代に生きられていることに感謝したいです」という類の結論にも疑問を抱きました。これらのありがちな結論は、自らの日常生活を省み、歴史に学ぶことに繋がらないからです。「戦争はいけない」という考えは、「戦争という人間の力を超えた強力な力によって、悲劇が起こされた」というニュアンスを感じさせてしまい、人間が日常生活の中で引き起こしたものであることから目を背けている気がします。また、「平和な時代」と言いますが、そもそも「平和」とは何なのか、果たして「平和」は存在するのかも疑問が残るところです。利害関係の一致する者同士でまとまり、生存競争を生き抜こうとするのは、自然界においては、当たり前の本能です。人間は平和を作り出せるほど他の動物よりも進化したのか、平和を作れるというのは人間のエゴではないのか?かなり悲観的ではありますが、アウシュヴィッツは、人間の本能が過激になった際に行き着く結果であるように感じました。

 

今月27日で、アウシュヴィッツは解放75周年を迎え、遺族・生還者の方々が出席される慰霊式典が、ビルケナウで執り行われます。それに関連して、最後に一番印象に残ったガイドさんのお話を。

「収容所から生還できた人たちに、あなたたちは幸運だった、と言う人がいます。しかし、『幸運』とは何のことでしょう。彼らは、この場所で、家族や友人との別れを経験し、故郷も今までの生活も全て失ったのです。自分も一緒に死んでしまいたかった、と思う人も多くいます。彼らにとって死は、ある意味での自由なのです。」

これを聞いた時、門に掲げられている「働けば自由になる」という言葉の意味が違って感じられました。一般的には、これはナチスによる嘘で、皮肉であるという捉え方がされています。しかし、もしかしたら、収容者にとっては、働かされた末に死を迎えることの方が、希望のない場所で生きながらえるよりも「自由」だったのではないかと。

 

ここに記したことは、あくまでも僕の所感のため、訪れる人によって抱く感想はそれぞれだと思います。しかし、ここまで「人類」「戦争」「平和」について考えられる場所は少ないと思うので、積極的に訪れることをお勧めします。

 

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