その15  本を読む本を読む | あなたのとなりにいる 中年男子の本棚

その15  本を読む本を読む

本を読む本  M.J.アドラー C.V.ドーレン 講談社学術文庫 945円


第一版は1940年に刊行されたという、真面目に本を読む技術が書かれた知る人ぞ知る名著。刊行以来各国語に翻訳されており、本書は1978年の改定版です。


内容が固い上、読み方例として挙げられる本も時代を感じさせるものであり(アリストテレスの「政治学」、アダム・スミスの「諸国民の富」など)、途中で何度か挫折しそうになりましたが、いろんな方がこの本を勧めているので意地になってなんとか通読しました。感想は、やはり読んで良かったです。


まず著者は第一章でこの本の”取り扱い方”ともいうべき「読書の意味」を説いています。そこでは

1.読むという行為は積極性が必要であること。

2.読書には知識のための読書と理解のための読書があること。

3.読むことは学ぶことであること。

4.読書には「初級読書」「点検読書」「分析読書」「シントピカル読書」の大きく4段階のレベルがあること。

をこの本を読む読者に対し解説しています。


1については読み手を野球でいうキャッチャーと例え、速球だろうと変化球だろうと著者が投げるボールを巧みに捕える技術が必要だと述べてます。

2は新聞や雑誌など知識を得るためだけの読書とは区別し、一回読んだだけでは本当に著者が述べていることを理解しているとは言えない、読み手と書き手の「理解の深さに差がある」場合の理解を深めるための読書があり、この本では後者の読書を対象としています。

3は読書を教師(書き手)と生徒(読者)の関係に例え、教師はあくまで補助的な役割しか果たせず、書いてあることから意図や理由を理解し「発見する」積極的姿勢と、頭を使って思考することが必要だと述べています。

4は初級読書(いわゆる通常の読む能力と思うがこれも4段階に分けている)、点検読書(本の全体をつかむ読書、限られた間内にできる限り多くのものを引き出す術。「ミルクの表面に浮いたクリームだけをすくい取るように読む」)、分析読書(いわゆる精読の域で著者の意図を理解しそれに対して批評できるまで読む。「著者に語り返すことは読者に与えられた機会であり、また義務でもある」)、シントピカル読書(比較読書。読書の最終目標であり、非常に積極的な読書法。公平さと客観性をもって多角的な理解をするための読書)と解説しています。


この本で解説する読書法は、著者の意図を本当に理解するのに値する名著、に限られているのは言うまでもありません。巷は本であふれていますが、どれだけ本を読んだとしても自分の考えや生き方に影響する本というものは、感動を伴うものだけだとつくづく思います。感動がなければこの本で述べている「知識を身につける為の読書」と何ら変わりはないのでしょう。本当に理解するということは心に響いたときだけ。そのような本に出会った時に、一回の通読では理解不十分だとしたらもったいないことです。そういう人生で数えるほどし出会えない、自分にとっての名著を完全に自分のものにする為の読書法が書いてある本でした。最近は速読と多読を勧めている読書法が多い中、逆に新鮮な内容でした。



ここからは私の心に響いたところです。


説明を求めたいなら教師の言うことをまず理解しなくてはならない。それでも教師がいれば理解を助けてもらうこともできようが、本を読むときは、本に書いてある言葉しか手がかりはない。


(点検読書の説明で)せいぜいパラグラフを一つか二つ、長くても二、三ページぐらいずつでよい。本全体を拾い読みする。特に最後の二、三ページは必ず読む。この最後のページで自分の仕事の新しさ重要さを要約する、という誘惑に勝ことのできる著者はめったにいない。


この本が追求しているのはまさしく読書によって理解を深めることに他ならない。本は分析的に読まなければ理解できない。分析読書はもともと理解のためのものなのである。


良い本は読者にとって難解である。難しいくらいの本でなくては読者にとって良い本とは言えない。そういう本に向かって読者は背伸びをし、自分をそこまで引き上げなくてはならない。


重要な文を見抜くことは読者が自分でしなくてはならない仕事である。まず、理解できない箇所がどこかはっきりさせることが第一である。→「分からないということをまず知ること」


文中の命題が理解できたかどうかを判断するには「自分の言葉で言いかえてみる」、これが一番良い方法である。


良い本は積極的読書に値するだが、内容が理解できただけでは、積極的読書として十分とは言えない。「批評の務めを果たして、つまり判断を下してはじめて、積極的読書は完了する。」


一般に注釈書を読むときの心得を一つあげよう。それは「読み終わってしまうまでは」その本に関する他の人の注釈書を読まないということである。のっけから注釈書を読んでしまうと注釈書が取り上げている問題ばかり気を取られ、他に重要な問題があっても見落としてしまいがちなる。


(小説の読み方で小説に対して読者は、反対したり賛成したりするのではなく、好きであるか嫌いであるかのどちらかだということを、忘れてはならない。「教養書」を批判する場合の基準は「真」だが、文学の場合は「美」であると考えてよいだろう。


(小説の読み方で)早く読むこと。そして作品に没入して読みふけること。自分が作中人物になりきって、どんな出来事も素直に受け入れてしまうのだ。判断を下すのは、自分がその世界の人物になりきったときでよい。


フィクションを批評するにあたっては、ある個人だけに特有の内面の欲求を満たす本と、ほとんどすべての人の深い欲求を満たすことができる本とを、はっきり区別するよう注意しなくてはならない。後者のような本こそ、各時代、各世代を通じて生き続ける優れた文学である。


もしある作品を読んだために、どうしても何らかの行動を起こさねばならないという気になったら、そこには、そういう感情を生み出す論述が潜んでいたのではないか、自問してみるとよい。詩や小説には、それとわからぬように論述が隠されていることがある。


誇張に聞こえるかもしれないが、実際九十九パーセントまでは読書の技術を磨くのにふさわしい本とは言えない。つまり大部分の本は娯楽または情報のための本である。この種の本は何かを与えてくれるものではないから、拾い読みだけで十分でる。だが、本当に読書法や人間の生き方を変えてくれるような本も確かにある。100冊に1冊、いや一万冊に一冊かもしれないが、著者が精魂を込めて書いた優れた本である。こういうものこそ読者に多くを求める本で、一度は分析読書を試みるに値するものである。(→ほとんどの本は拾い読みでよいということ?)



この本の中年男子が読むのに要した忍耐度(→良い本は難解である) ★×4.5でした

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