真実に関する定義について 15 | Cyprobeのブログ

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つまり、このことから言えるのは

その単純化されたサッカーのような例だと、
オフサイドトラップが失敗した瞬間という
自分が確かにそう考え決意した直後の時間には
その選手は、全世界が知らない
目には見えないすべての内情を確かに知っていました。
少なくともそのころには狭義の真実ではない
広義の真実を一人だけ知っていたことになります。

ですがその性質からどこまで行っても人間の記憶に頼る以上
それは真実であることを認定することはできません。

もしそれを認定することができるとすれば。
その考えや心理の動きを「撮影」し時間発展する関数データとして
忠実に再現可能な形で保存されていることが要件となります。

しかし、現代の科学力から考えてそのようにして記憶や心の動きを
個人的に撮影して残すことことなど私たちの生命の時間の間に
実現すること無理でしょう。
なので
私たちにとって
実際的に有用な範囲の広義の真実は
理想郷「ユートピア」と同じ、イメージの中にはあるが
実際には存在しないただの「イデア」としてしかありません。

ですが、広義の事実と同じで、
実際にはそこまで完全に観測・記録・立証ができなくても
それを目指す最終的な理想モデルではあります、

私たちが自分たちの生命の中で、
何が真実であるかを考えるのに有用で重要なシーンがあるとすれば
そのように、
誰かから伝聞を受けた情報を
これが真実だ
とか
これが事実だ
といって受け渡されたときに
果たしてその主張がそれぞれその構成要件を備えているかを検証することによって
嘘やデマ、誰かの思い込みによる勝手な記憶の書き換えを
防止することにつながります。

だったしても実際は単純で
我々の扱える情報は
特殊な例を除いてほとんど狭義の事実でしかない場合がほとんどなので
まずはそれをまず前提において情報を取捨選択するのが
確実かつ便宜的かもしれません。


誰かがこれは真実だ
と命題を言ってきた場合、
大抵の場合は

(物語の中でしか完璧な答えが存在しないいわゆる広義の事実とは異なり)
現実の中の私たちにとってはどこまで追求したとしても
私たちにとっては所詮風説を超えることはできない
狭義の事実しかあつかっていないはず
のものを

どこかで
狭義の事実≒広義の事実
であると
勝手に誰かが置き換えて

そしてそれをさらに
広義の事実≒狭義の真実と
して置き換えて言っている
というのが言葉のつかわれかたとしては
図式としては正確でしょう

真実という
言葉を耳にしたときに
あたかもその文学的表現といいますか
事実という言葉よりも強い説得性を帯びます。

それは私たち漢字という文字を
幼いころから感覚的に体得している
私たち表意文字言語圏の人間にとっては
より陥りがちな落とし穴で注意すべきことなのかもしれません。