はい! 歴史オタクの奈央です。
昨日のブログの最後に次のようなことを書きました。
「空白の4世紀に進行した絹文化の伝播が、北部九州から近畿へ東征に伴って進んでいったのか?
あるいは、近畿王権による九州征伐の結果として進んだのかはわかりません。このことをもう少し深く考えるため、鉄製武器の時代分布について書きたいと思います。」
ということで、今回は鉄製武器の時代分布のご紹介です。
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邪馬台国の会 考古学のデータベースに弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈・鉄鏃・刀子の数がグラフとして紹介されていました。
弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈・鉄鏃・刀子の数
解説: 魏志倭人伝には、倭人は兵器に矛を持つと記す。邪馬台国の時代には、青銅器は、 広型銅剣のようにすでに祭器化しており、実用的武器としては鉄矛が使われたと考えられる。このころは、刀も鉄製であろう。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。
弥生時代の鉄鏃の数
解説: 魏志倭人伝は、倭人は鉄の鏃(やじり)を使うと記す。
鉄の鏃は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍の鏃が出土する。
弥生時代の素環頭刀子・刀子の数
解説: 刀子は日常的な用途のナイフ・小刀のことで、出土数も多い。その分布は、倭人の鉄の使用状況をよく示すものである。
刀子は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。福岡県では210本も出土したのに、奈良県では一本も出土しない。
以上の出土状況とその解説を読むと、弥生時代は九州・福岡に鉄製武器を有する最も強大なクニが存在していたことが推測されます。
対して、近畿では、京都・兵庫に比較的強力な集団の芽生えが見られるものの、九州の比ではないと考えられます。
この結果からだけ言えば、九州から近畿への東征は十分に可能性があるものの、その逆は不可能であったろうと考えられます。
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別の研究結果からも考察してみようと思います。
野島 永
弥生時代後期から古墳時代初頭における鉄製武器をめぐって
河瀨正利先生退官記念論文集 考古論集, 2004年
九州では,後期前葉には副葬鉄刀,とくに素環頭鉄刀の出土例が目立ち、後漢鏡と共伴するものが多い。
*環頭大刀は、中国を起源とする円環状の柄頭(つかがしら)をもつ大刀である。なかでも円環のなかに装飾のない素環頭大刀は最も古い形式であり、古墳時代中期(5世紀頃)になると、我が国でも製作されるようになった。
(従って、弥生時代から古墳時代初頭では、副葬されたものは舶載刀であると考えられます。奈央の考察)
近畿北部においても,弥生時代後期初頭にはすでに素環頭鉄刀が出土したことは注目される。
素環頭鉄刀および鉄刀の出土地と共伴する副葬品
弥生時代後期前葉~中葉
『河瀨正利先生退官記念論文集 考古論集』(2004年)
野島 永, 弥生時代後期から古墳時代初頭における 鉄製武器をめぐって よりお借りしました。
弥生後期中葉から終末期には,素環頭鉄刀や鉄刀の出土例は激増する。
九州北部では,小刀(刀子)や素環頭刀子などであれば,副葬品と同様のものが集落からでも出土するようになる。
山陰や北陸では後期後葉以降,四隅突出形墳丘墓が展開していく地域であるが,四隅突出形墳丘墓からは,鉄器の副葬はそれほどみられず,むしろ方形に区画される台状墓や周溝墓に,鉄製刀剣類を頂点とした鉄器副葬が顕著にみられる。
弥生時代後期後葉~終末期
『河瀨正利先生退官記念論文集 考古論集』(2004年)
野島 永, 弥生時代後期から古墳時代初頭における 鉄製武器をめぐって よりお借りしました。
以上のことから、鉄器武具の副葬品は、弥生中期まで北部九州に集中し、弥生後期~終末期になって、山陰・近畿北部・北陸へと海岸伝いに広がっていったことが推測されます。
また、山陰や北陸で特徴的な四隅突出形墳丘墓からは鉄器の副葬がそれほど見られないということは、この地域発の風習ではないことを意味しています。
したがって、鉄製武器の副葬は北部九州から始まり、やがて日本海ルートで山陰・近畿北部・北陸へと伝わっていったとみるのが妥当です。
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王権を維持・拡大する上で重要なアイテムである鉄製武器の分布状況を考えると、北部九州の強大な勢力が海岸伝いに東征していったことが推測されます。
そう!まるで記紀の国譲り神話のように。
大和まで到達した九州の強大な勢力が、大和に根を下ろし、大和王権を樹立したとみるのが合理的です。
つまり、弥生時代の後期から、九州の強力な勢力の東征が進行したと考えられます。
はい! 今回は以上です。
何となく、空白の4世紀の初期段階に国内で起こったことについて結論じみたことを書いてしまいました。
次回は、稲作・土器・高地性集落と空白の4世紀との関連について考察したいと思います。
それじゃあ、またね。