龍は縁起物として、古くから中国や日本において崇められてきました。

中国における龍の縁起

  • 風水では究極の幸運のシンボルとされ、愛情運、財運、出世運を呼び込むとされる
  • 邪気を払い、運気を良い流れへ変える力があるとされる
  • 権力、隆盛、吉祥の象徴として崇められてきた

日本における龍の縁起

  • 雨乞い祈願などの天候を司る神や、農耕の神として信仰されてきた
  • 五穀豊穣をもたらすことから、金運や仕事運を上げる御利益にもつながった

龍は、水中に棲み、天に昇るイメージから運気を上げる縁起のよいイメージが出来上がっていきました。

龍の縁起物として、次のようなものがあります。

  • 一筆龍:文字通り「一筆」で描いた龍のことで、「一繋ぎで途切れない」ことから人とのご縁を繋ぐ、ご縁が途切れないとされています
  • 昇り龍:すべての運気が上昇すると言われています

日本文化の竜

→「中国の竜」も参照

中国から弥生時代には現在の竜のモチーフが日本にもたらされており、和泉市にある紀元一世紀頃の池上曽根遺跡から、胴をくねらせ三角の無数の突起を持つ動物が描かれた壺が出土している。こうした弥生竜の図柄を持った遺物は日本全国で30点あまり発見されている。この時代の日本人は竜の確乎たるイメージを持っていなかったため、中国の竜の正確な模倣はできなかった[2]。一方では、最初の弥生人は江南地域の竜蛇信仰を持つ海神族の流れであるとする説[3]があり、大陸から竜と共に渡ってきたとされる(『魏志倭人伝』に、人が入れ墨をして蛟竜を避ける風習に似て、倭人も入れ墨で大魚水禽の難を避けると記述される[4])。

日本神話は、海神族を竜宮の八尋和邇などとしており、天孫地神五代と八尋和邇の玉依姫との間に初代天皇である神武天皇を設け、また、日本海を中心とした高志(後に)の八岐大蛇に自然崇拝を現して、日本神話を語っている。そして、国津神に属する大国主神大物主神建御名方神などが蛇体・竜神として描かれた。

天皇の権威の象徴は、日本では竜の剣として表している。

科学史家の荒川紘は、五爪の竜は、中国では皇帝の象徴であるから、日本では天皇の権威の象徴として用いられることはなかったと述べ、その背景には中国をただ模倣するのではなく日本の天皇の中国に対する独自性を宣揚しようとの意図があったのではないかとみている[5]。また、日本の竜は、蛇、魚の群れや魚との区別があいまいで多種多様な姿形と性格を呈しており、それは江南の竜蛇信仰と混淆して更に外来文化の竜が接木された結果であろうと推察している[6]

平安時代になり、『法華経』や密教が滲透するにつれて日本の竜は明確に独自性を帯びてくる。9世紀には室生寺に「竜穴」の記録が現れ、雨乞い信仰が行われるようになった。竜穴はその後も日本各地の寺社に現れ、中世には竜穴同士は地下で繋がっており、竜もしくは蛇竜が行き来しているという観念が生まれた[7]。戦では、戦勝と守り神に竜を象る剣や兜が用いられた。中世末になると、戦国大名の里見義頼は竜が描かれた印判を使用するようになる[8]

日本神話

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神武天皇(初代天皇の彦火火出見尊)は、海神の竜宮に住む八尋和邇の豊玉姫玉依姫などの女系子孫の竜であり、神話では妃に竜を迎え入れる構図をとって竜が中国の支配者である皇帝を表すのとは対照的な思想である。また、出雲など日本海を中心に渡って高志(後に)の八岐大蛇に、海、川、山などの自然崇拝を比喩して語っており、天孫から降りてた海の神を司る国津神の素戔男尊が八岐大蛇を裂いて取り出した剣は、日本の天皇が表す竜の化身として天皇の証とした。天皇がこの竜の剣を用い、竜の剣は守り神とされて祭られている。海の神の素戔男尊に係り、また、国譲りなどにともなう大国主神、大物主神、建御名方神など等は、海神の竜の姿とされた。

竜神

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→「竜王」も参照

竜神は竜王、竜宮の神、竜宮様とも呼ばれ、水を司る水神として日本各地で祀られる。竜神が棲むとされる沼や淵で行われる雨乞いは全国的にみられる。漁村では海神とされ、豊漁を祈願する竜神祭が行われる。場所によっては竜宮から魚がもたらされるという言い伝えもある。ホタルイカは竜宮の使いと云われる。一般に、など日本の竜神信仰の基層には蛇神信仰があると想定されている[9]

また、「竜神が鐘を好む」という伝説も日本各地に残る。例えば尾上神社(兵庫県加古川市)の鐘については次のような話が伝わる。応仁の乱の頃、この寺の鐘が海賊に盗まれた。鐘を載せた船が足摺岬沖にさしかかると、穏やかだった海が突如、大荒れになった。乗組員たちは海底の竜神が鐘を欲しがっているためと考え、泣く泣く鐘を海中へ投じた。すると海は途端に凪いだ。その後、鐘は近隣の漁師に引き揚げられて、高野山へ奉納された。しかし、鐘が「おのえへ、去(い)のぉ(帰ろう)」とひとりでに鳴り出すので元の持ち主が分かり、ほどなく尾上神社へ戻されたという。

五竜

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五行思想書経』古代中国に端を発する自然哲学の思想から、四神・五獣、五竜が置かれた。高松塚古墳などに描かれた紫微垣をまもる四獣の壁画に青竜の姿が現れる。高句麗様式の影響をうけている。

日本各地に、青竜赤竜黄竜白竜黒竜五竜の伝承へと広まりをみせ現在に至る

龍は縁起物として、古くから中国や日本において崇められてきました。

 

 

中国貴州省の「龍の巣」は、ミャオ族が畏れ、冥界と信じていた巨大な洞窟群です。中国で最も長い鍾乳洞とされており、世界最大の地下空間とも言われています。

「龍の巣」は、紫雲ミャオ族プイ族自治県の格凸河風景名勝区にあり、ミャオ語で「聖地」を意味する「格凸」という地名がついています。

「龍の巣」に関する調査は、NHKスペシャル「巨大地下空間 龍の巣に挑む」で放送されました。この番組では、2年にわたる交渉の末に中国政府から撮影の許可を得て、内部をくまなく調査し、その全貌と誕生の秘密を解き明かしています。

中国の竜

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「九龍図巻」陳容画(南宋)、ボストン美術館

→詳細は「中国の竜」を参照

中国のは神獣・霊獣であり、『史記』における劉邦出生伝説をはじめとして、中国では皇帝シンボルとして扱われた。水中か地中に棲むとされることが多い。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われ、また口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。

中華人民共和国内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃に存在した紅山文化の墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。

恐竜など大型動物の化石竜の骨竜骨)と信じられ、長く漢方の材料として使用された。

竜を意味するは、十二支における12種類の動物の一つである。また、竜生九子という9つの子を産んだという。

竜(やドラゴン)の伝承の発端としては、クジラや恐竜などの大型動物の骨や化石、ワニやオオトカゲなどの爬虫類、人間の本能的な蛇などへの恐怖などの仮説が挙げられている[3]青木良輔は、竜の起源は、古代に長江漢水に残存していたワニの一種(マチカネワニ)であり、寒冷化や人類による狩猟により絶滅した後、伝説化したものだと主張している[4]。これは現在残っている竜の図像の歴史的変化からも窺えるとのことである。

ナーガと仏教の竜王

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→「ナーガ」も参照

仏教における様々な龍王の名。

竜の起源に関する正確な定説は存在しないが、インドの蛇神であり水神でもあるナーガの類も、仏典が中国に伝わった際、「竜」や「竜王」などと訳され、八部衆の一として組み込まれた。そうした関係から、仏教伝来以後の中国の竜もまた、蛇神ナーガのイメージから影響を受けたことは想像に難くない。例えば、道教における竜王は、ほとんどインドのナーガラージャと同じ性質を持つ。しかし、仏教が中国に伝わる前に、中国の竜はすでに雨水をつかさどるイメージがあった(例えば応竜)。ちなみに日本でヒンドゥー教など他の聖典や文学などを翻訳する場合でも、それらインドの神格を「蛇」ないし「竜」とするのが通例となっている。

竜にも善悪があり、法行竜と非法行竜があるとされる。また竜には、一つに熱風熱沙に焼かれる苦悩、二つに住居を悪風が吹きさらし宝を失い衣が脱げる苦悩、三つに金翅鳥(こんじちょう、迦楼羅)に食される苦悩があるとされる(ただし阿耨達池に住む竜王にはこの苦悩はない)。

仏教では、釈迦が生誕した際に二匹の竜が清浄水を灌ぎ、成道時に七日間の降雨を釈迦の身を覆って守護した。また仏が毒龍を降伏させたり盲竜を治癒させるなどの多くの説話がある。また法華経提婆達多品では、八歳の竜女の成仏が説かれている。

日本の竜

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→詳細は「日本の竜」を参照

「釈迦八相記今様写絵」
二代目歌川国貞歌川国政)、19世紀

彦火火出見尊(初代天皇の神武天皇)は、竜の腹から生まれており、日本神話に登場する高志(のちの)の八岐大蛇、海神の八尋和邇龍宮が、現在に伝わる。もともと日本にあった自然を神として崇拝する信仰と中国から伝来した文様や中国の竜とが融合して日本の竜とされる。四神・五獣と繋がり、特に青竜古墳などに現在の姿で描かれて有名である。神話の八岐大蛇伝説と仏教の八大竜王伝説などが習合した倶利伽羅竜九頭竜善女竜王清瀧権現)伝承も有名。玄武とも繋り北の越国など辺りの竜を黒竜とした。蜃気楼に竜宮・霊亀蓬莱山が現れて吉祥とされる。

治水や灌漑技術が未熟だった時代には、河川の氾濫や旱魃が続くと、竜神に食べ物や生け贄を捧げたりした。その象徴が、神道では櫛名田比売(くしなだひめ)などとして語られ、仏教では、高僧が祈りを捧げるといった雨乞いの行事が行われた。神泉苑二条城南)で空海が祈りを捧げて善女竜王清瀧権現)を呼び、雨を降らせたという逸話が有名である。

また、剣は、炎の竜の化身とされており、八岐大蛇から生まれた剣は天皇であることを表す神器として伊勢神宮(後に熱田神宮)に天叢雲剣(のちに草薙剣)が祭られ、また、守り神とされた。中世ころには刀剣、兜に竜をかたどり戦が行われた。

他にも水の神として、また戦いの神として各地で民間信仰の対象として広まった。日本列島が水の国であることを象

 

 

大阪の大阪による大阪のための構想なのか? 日本維新の会がこだわる「副首都」の要件を巡り、各地の政令市長から異論が相次いでいる。 【写真まとめ】副首都に思惑さまざま、各都市のシンボル  「やろうと思えば、手を挙げた名古屋だって目指すこともできるし、福岡市も周辺市と一緒になれば、これはできる」  維新の吉村洋文代表(大阪府知事)は24日、大阪以外の都市からも副首都への関心が高まっていることを歓迎する一方、「副首都にふさわしいのは(大阪)都構想」と、副首都の要件はあくまで政令市廃止・特別区設置であるべきだとの考えを譲らなかった。  都構想の根拠法、大都市地域特別区設置法(大都市法)は、その人口要件を政令市単独または隣接市町村を含めて「200万人以上」としている。現状、政令市単独で特別区になり得る都市は大阪、横浜、名古屋の3市に限られる。  維新創設者の橋下徹氏は副首都の要件を狭めず、大阪は都構想、他の都市は選択制にして、政令市が道府県の権限も併せ持つ特別市も入れてはどうかと提案する。だが、吉村氏は特別市は「制度化されていない」とし、「基本的に政令市は大都市法を嫌がるし、都道府県は特別市を嫌がる。そういう構図になっている」とかたくなだ。  ◇他の政令市からは異論  人口約167万人の福岡市。高島宗一郎市長は、南海トラフ巨大地震で同時に被災するリスクを避ける意味でも「福岡は(副首都の)適地だ」と主張する。9日の記者会見では、「大阪による大阪のためだけみたいな議論にするのはすごくもったいない」とし、「ぜひ広くいろんな場所も想定しながら、どういうバックアップ機能の配置が国家として一番いいのかを考えていただきたい」と呼び掛けた。  特別市を目指す名古屋市の広沢一郎市長は、名古屋を「副首都にふさわしい」とする一方、市を廃止して特別区にする考えは「今のところない」と否定する。10月の会見では「副首都になるために特別区の議論をしていくのもちょっと何だ」と疑問を呈した。  指定都市市長会長を務める神戸市の久元喜造市長も12月25日の会見で「副首都構想というものと大都市制度が密接不可分かどうかは疑問だ」と指摘。その上で、「年来主張してきた特別市制度の創設を含む多様な制度の有りようを議論する一つのチャンスではないか」と受け止めた。  横浜市の山中竹春市長は9月の会見で「強固な都市基盤を目指すために特別市を提唱してきた。多極分散の社会を作ることが日本の成長や安心につながる」とし、「日本全体の地方自治のあり方を国会で議論してほしい」と求めた。  ◇京都市長「市の消滅考えていない」  「何らかのステータスを得るために、安易に市域を統合した方がいいという考え方には立っていません」  かつて首都だった京都市の松井孝治市長は12月3日の会見でそう述べ、「京都市を消滅、統合の対象としては考えていない」とした。一方、首都機能の一極集中は避けるべきだとの考えを示し、「関西圏がその一端を担わなければならない自負はある」と言及。  文化庁の移転を踏まえ、「長い間、皇族がお住まいになり、今も御所が存在する街であり、文化財の集積度、生活文化の豊かさという意味で京都が文化的に大きな役割を担っていくべきではないか」と述べた。  ◇与党内、自民とは距離も  与党内でも維新と自民党の間には、溝が見え隠れする。自民は大阪府連が党本部に都構想と副首都の議論を切り分けるよう要望した。中央では、副首都を議題に両党の実務担当者による協議が進行中だ。11月11日の初会合では自民の宮下一郎元農相が「我々の準備している構想は、いわゆる都構想というコンセプトは入っていない」と述べ、温度差をにじませた。  年内に予定していた論点整理も年明けに持ち越された。自民の小林鷹之政調会長は12月25日の会見で、こう語った。「特定の一つの都市に限っていくよりも、できるだけ複数の地方が関心を持って手を挙げられるような枠組みにしていく必要がある」 

 今夏の甲子園は、沖縄尚学が初優勝を飾った。2010年の興南以来の全国制覇に地元・沖縄県民の盛り上がりが伝えられたが、愛媛県内にも沖縄尚学の快挙に心を躍らせた指導者がいる。ともに同校OBの松山聖陵・荷川取秀明監督と聖カタリナ大・大城卓也部長。後輩の活躍に刺激を受け「今度は自分たちが」と燃えている。

▮自分も負けてられない

「後輩たちが成し遂げたっていうのは、すごくうれしい瞬間で、エネルギーをもらって、これからやらなきゃいかんなという気持ちになりました」

 沖縄尚学優勝の瞬間、松山聖陵の荷川取秀明監督は、里帰りしていた沖縄の青空の下で、後輩たちの快挙に胸を熱くしていた。

 

センバツ優勝旗を手にする高校時代の荷川取監督と比嘉公也・現沖縄尚学監督(写真/荷川取氏提供)

 自身も1999年のセンバツで沖縄尚学の1番サードとして活躍し、沖縄県勢として初めて甲子園で優勝を果たした時のメンバー。沖縄尚学の比嘉公也監督はその時のチームメイトだ。その年は夏の甲子園にも出場し、春夏連覇も期待されたが、2回戦で敗退。荷川取監督は当時の様子を思い出しながら・・・

の名言・格言

西郷隆盛の名言・格言

西郷隆盛の名言(5)


西郷先生に従って、犬を走らせて兎を追い、山谷をめぐり歩いて終日狩りをして過ごし、一軒の農家に宿を借り、風呂から上がって、爽快きわまりないといったご様子で、ゆったりと、君子の心はつねにこのようにさわやかなものであろうと思う、と言われた。

- 西郷隆盛 -


自分の身を慎み、心を正して、君子の体を備えていても、事にあたって、正しく対処できない人は、木の人形と同じだ。
たとえば、突然数十人の来客があった場合、どんなにもてなしたいと思っても、前もって器具や調度の備えをしていなければ、ただおろおろと心配するだけで、もてなすことなどできはしない。
つねに備えをしておくなら、何人であろうとも、数に応じてもてなすことができよう。
だから、普段の準備が大事なのだといって次の古語を書いてくださった。
文は鉛と板のことをいうのではない。
必ず事を処する才がある。
武は剣と楯のことをいうのではない。
必ず敵をはかる智がある。
才智のあるところは一箇所のみなのだ。

- 西郷隆盛 -


物事に取り組む際、自分の思慮の浅さを心配することはない。
およそ思慮というものは、黙って座り、静かに思いをめぐらしているときにすべきことである。
そのようにすれば、有事のときには、十のうち八、九は実行されるものだ。
事件に遭遇して、はじめて考えてみても、それは寝ているときに夢の中で奇策やすばらしい思いつきを得たとしても、朝起きたときには、役に立たない妄想のたぐいが多いのと同じである。

- 西郷隆盛 -


漢学を勉強した者は、ますます漢書から道を学ぶのがよい。
人が踏み行うべき道は、この天地のおのずからなる道理であるから、東洋・西洋の区別はないのである。
もしも現在の万国対峙の形勢について知りたいと思うならば、漢書の「春秋左氏伝」を熟読し、さらに「孫子」で補えばよい。
当時の形勢も今の情勢とほとんど大差ないだろう。

- 西郷隆盛 -


急速は事を破り、寧耐は事を成す。

※ 寧耐(ねいたい)とは、心静かに落ちつきはらって、迫りくる困難や苦痛に耐えること

- 西郷隆盛 -


思い切ってやりなさい。
責任は私がとる。

- 西郷隆盛 -


世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵のように儚く消え去ってしまうものである。

- 西郷隆盛 -


小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。
己を利する者は私、民を利する者は公なり。
公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ。

- 西郷隆盛 -


徳に勤むる者は、これを求めずして、財自から生ず。

- 西郷隆盛 -


正論では革命をおこせない。
革命をおこすものは僻論である。

※ 僻論(へきろん)とは、偏っていて道理に合わない論のこと

- 西郷隆盛 -

葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。

概要

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鍋島秘書 葉隠論語抄 。葉隠の「いちょう本」、1939年大木陽堂刊

書名の由来

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本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言うの木があったからとする説などがある。葉とは「言の葉」言葉を意味するとも言われている。

内容

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『葉隠』は一般の武士を対象にした武士道論ではなく、藩主に仕える者の心構えと佐賀藩の歴史や習慣に関する知識を集めたものであった[1]。江戸時代には公開が憚られ、一部の人々にしか知られていなかった[1]

「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山晩年の著作『武道初心集』とも共通するところが多い。

江戸時代はじめ、幕府の意向で中央に近いところでは儒教的な服従秩序規律の価値が重視され、武士は役人としての仕事にあくせくしていた。しかし江戸から遠ざかるにつれ、教養のある人々のところから、もっと鬱屈した人間たちのところへ行くにつれて、中央の思想とは違った感情に人は出会うこととなる。名誉心はいっそう峻厳なものとなり、忠誠心はいやが上にも賛美され、単に有用なだけの才能を軽侮することをもってよしとする風があった。死が身近であった戦国の精神がそこには生き残っていた。山本常朝が九州の片隅、肥前(今の佐賀市)で最もラディカルな武士道の書、『葉隠』を口述しえたのはそのような背景がある[2]

文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂)様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。

当時、主流であった儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったことと、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。また、赤穂義士の切腹介錯に何人か失敗して二度斬りしている件について[3][4]、介錯人が慌てるのではなく「左様の時は先づ相控へ、何事にてなりとも力み候様に仕り、すこしすつくとなり候處をのがさず切り候へば、仕済し候と承り候由なり」と述べている[5]

この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが(鍋島綱茂は吉良義央の甥、吉茂宗茂は義甥にあたる。また、「主君のために命を捧げるは愚か」「二君に仕えるべし」とする山鹿流は吉良氏と昵懇だった津軽・松浦両家に伝承された[6])、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。

また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が肝要とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。

浮世から何里あらうか山桜    常朝 白雲やただ今花に尋ね合ひ    陣基

明治時代以降の『葉隠』受容

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1906年(明治39年)3月23日、聞書一・二を中心に分量を五分の一ほどにした中村郁一編『葉隠』(東京・丁酉社)が刊行され、天皇に献上された[1]。この天覧と乃木希典の威光を借りて、1911年(明治44年)2月15日には『鍋島論語葉隠』(平井奎文館)と題名を変えて再版された[1]。そして、『葉隠』を有名にしたのは、佐賀出身の軍人たちの活躍であった[1]1932年(昭和7年)1月の佐賀郡北川副村新鄕出身の古賀伝太郎連隊長の戦死、同年2月の「爆弾三勇士」の戦死、同年3月の空閑昇少佐の死を、1932年3月『肥前史談』5巻3号が「葉隠精神の発露」と題して以降、『葉隠』は忠君愛国精神のシンボルとなった[1]

明治中期以降、アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸稲造の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。

戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、現在では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。戦後、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、[要出典]新潮文庫で再刊された。

また、『葉隠』は処世術・ビジネス本としても受容され、もともとは藩に属する奉公人の心構えを説いたものであるが、『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、会社勤めの現代のビジネスマンにも重なるところが共感を呼んで『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

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『葉隠』の記述の中で特に有名な一節であるが、『葉隠』の全体を理解せず、ただとある目的のためには死を厭わないとすることを武士道精神と解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻玉砕自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。[7]

しかしながら、そのような解釈は全くの見当違いである。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」で始まる一節は、以下のようなものである[8]

原文

二つ〳〵の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。(中略)二つ〳〵の場にて、図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。

現代語訳

どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。(中略)そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。私も含めて人間は、生きる方が好きだ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。(しかし)図にはずれて生き延びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。

『葉隠』 は人の「生きる理由」に着目する。「死ぬよりも生きることを優先する」という人間大多数の原則には必ず何らかの理由があると説く。しかし常にその理由を意識し続けているわけではなく、一度でも忘れてしまえば腰抜けに生きるようになり、人生そのものが台無しになるだろう。

そこで死の覚悟を不断に持することによって、自らの生きる理由を見つめ直し「職分を落ち度なく全うする」べきであると説く。武士として恥をかかず、また人間として有意義に生きるために、死ぬ覚悟が不可欠と主張しているのである。このように『葉隠』は死を礼讃しているのではなく、むしろ人生観について説いたものである[8]

刊本

謝辞
二十五周年記念版への謝辞
序文(トミー・シェルビー)
序文 人種契約──時代はめぐる

序 章

第一章 概説
人種契約は政治や道徳、認識論にかかわる。
人種契約は歴史的現実(アクチュアリティ)である。
人種契約はひとつの搾取契約であり、ヨーロッパ人によるグローバルな経済支配と白人の国民的人種特権をもたらす。

第二章 詳述
人種契約は場所を文明的なものと野生的なものに区分けすることで空間を規範化(そして人種化)する。
人種契約は人間と隷属人間という区分をもうけて、個人を規範化(そして人種化)する。
人種契約は近代における社会契約を裏書きし、しかもつねに書き換えられる。
人種契約は暴力とイデオロギー的調整によって強化される。

第三章 「人種契約」理論の「自然化された」利点
人種契約は道徳的な白人主体(の大半)がもつ現実的な道徳/政治意識を歴史的に追跡する。
人種契約こそが白人の道徳的/政治的慣習の真の決定要因であり、今後批判されるべき真の道徳的/政治的合意であると非白人たちはこれまでずっと気づいていた。
理論としての人種契約論は、世界の政治的/道徳的現実を解き明かし、規範的な理論を導くという点で、人種なき社会契約よりも優れた説明力をもつ。

訳者あとがき
原注
索引

 

現代の民主主義国家が自明の前提とする社会契約論はその根底にレイシズムをはらんでいる。ホッブズ、ロック、ルソー、カントからロールズにいたる白人のための政治哲学を書き換え、あらゆる政治体制の基本構造に埋め込まれた人種差別契約を打ち砕くためにわたしたちはいかに思考すべきか。批判的人種理論の射程を大きく広げたブラック・ラディカリズムの名著、邦訳成る。

 

チャールズ・W・ミルズ(ミルズ チャールズ ウェイド)

(Charles Wade Mills)
1951年イギリス生まれ。西インド諸島大学で物理学を学んだのち、トロント大学で哲学の博士号を取得。ニューヨーク市立大学大学院センター、ノースウェスタン大学で教授を務める。おもな著書にFrom Class to Race: Essays in White Marxism and Black Radicalism (Rowman & Littlefield, 2003), Radical Theory, Caribbean Reality: Race, Class and Social Domination (University of the West Indies Press, 2010)など、共著にThe Contract and Domination (Polity, 2013)がある。2021年逝去。

赤楚衛二&上白石萌歌、沖縄ロケで“抜群コンビネーション”発揮 撮影裏エピソード&メイキング写真公開【366日】

上白石萌歌、赤楚衛二/場面写真より(C)2025映画「366⽇」製作委員会

【モデルプレス=2024/11/21】俳優の赤楚衛二が主演、上白石萌歌がヒロインを務める映画『366日』(2025年1月10日公開)より、ロケ地・沖縄での場面写真とメイキング写真が解禁された。 【写真】上白石萌歌、華やかノースリーブで素肌魅せ ◆赤楚衛二&上白石萌歌、2作目共演で抜群コンビネーション発揮 本作の撮影は2024年6月から約2ヵ月間にわたって実施。前半は東京と関東近郊、後半は沖縄で撮影というスケジュールで、6月末にキャスト・スタッフが沖縄に移動したころにはすでに真夏の暑さであった。沖縄の初日はセミの鳴き声が響く中、HYも通った与勝高校の屋上にて高校時代のシーンを撮影することに。 主人公の真喜屋湊を演じる赤楚と、ヒロイン・玉城美海役の上白石は本作が2作目の共演となり、東京でのクランクイン当初から打ち解けていた様子。目を開けるのも苦労するような日差しの下で、より自然な動きややりとりを相談しつつ演じ、抜群のコンビネーションを見せていく。本作のメガホンをとる新城毅彦監督とも話し合いながら、きらきらした青春の1ページを丁寧に表現していった。 沖縄の撮影で印象的なのが、その美しい海や自然が感じられる数々のロケ地。劇中、2つのビーチが湊と美海の思い出の場所として登場するが、これは製作チームがロケハンを重ね、沖縄に数多あるビーチをほとんど訪れた中から、こだわって選び抜いた場所。今回、そんな2つのビーチでの撮影の裏側エピソードが公開された。 ◆赤楚衛二&上白石萌歌、ビーチ撮影で笑顔 1つ目めの赤墓ビーチでは、湊と美海が初めて言葉を交わし、美海が“世界で1番おいしいサータアンダギー”を湊に手渡す。シーン冒頭では、湊は1人で砂浜に寝そべっている設定のため、赤楚はここでも強い日差しを浴びながら演じることに。上白石は、サータアンダギーをどう扱うのが自然か、袋から出したものをどう違和感なく渡すのか考え、新城監督や赤楚に実演してみせる。 さらにこのシーンの重要ポイントである、とびきりおいしそうにサータアンダギーを頬張る美海の姿をチャーミングに体現。その笑顔で、湊の心だけでなく周囲もパッと明るくしていく。ちなみに、この赤墓ビーチではクライマックスシーンも撮影されているほか、空き時間に赤楚がヤドカリを見つけたり、HYが差し入れを手に見学に訪れ赤楚、上白石と談笑するなどと撮影以外の思い出も。 本作でロケ撮影を行ったもう1つのビーチが、沖縄本島から海中道路でつながる離島・浜比嘉島のシルミチュー公園傍にある砂浜。ここでは、高校の卒業式を終えて1人で物思いにふけっていた湊と、湊を追ってこの場所にきた美海がある大切な会話を交わすシーン。 波打ち際で、足先を水につけながら歩く2人。赤楚と上白石は、立ち止まるタイミングなども監督と相談しながら、それぞれの心情を大切に演じていく。実は暑さで、まるで温水プールのような水温なのだが、そんなことは全く感じさせない。ここでの空き時間には、上白石が小さな白い貝殻を見つけてスタッフに披露。いつも穏やかな笑顔の2人のおかげで、現場の雰囲気は常になごやかだった。 ◆「366日」撮影のハードルが高かったシーンとは? そのほかに新城監督が沖縄で最も印象的だった撮影場所の1つに挙げているのが、海中道路のシーン。海中道路は沖縄本島と離島を結ぶ約5キロの道路で、その名の通り海の真ん中に造られている。湊が1人で自転車をこぐシーン、湊と美海がそれぞれの自転車に乗り2人で走り抜けるシーン、そして美海が、中島裕翔演じる幼馴染の琉晴のバイクの後部に座る2人乗りのシーンなどを撮影したが、どれも美しい海をバックに疾走感あふれる映像となった。 なかでも特に撮影のハードルが高かったのがバイクの2人乗り。バイクを牽引し、車線を封鎖しての大掛かりな撮影となるため、代案も探られたが、監督が熱望して敢行したシーンで、本作の見どころの1つとなっている。またビーチや海中道路に加え、CDショップや公園、海沿いのバス停などでも撮影。沖縄の美しい風景が、湊と美海の切ないラブストーリーを彩る。 ◆HY「366日」映画化 『366日』は、叶わぬ恋を歌った失恋ソングとして2008年に発表され、今なお世代を超えて愛され続けている楽曲。本作では、その楽曲をモチーフに、映画オリジナルのストーリーが紡がれる。 2003年、沖縄に住む高校生・湊は、同じ高校の後輩・美海と出会う。同じ音楽が好きな2人は自然と惹かれ合っていき、湊の卒業式の日に告白し付き合うことに。母を病気で亡くし、音楽を作るという自分の夢を諦めかけていた湊だったが、「いつか湊先輩が作った曲、聴きたいです」という美海の言葉に背中を押され、東京の大学へ進学。2年後、美海も上京し湊と再会、東京での2人の幸せな日々が始まる。 音楽会社に就職が決まった湊と、通訳という自分の夢に向かって頑張る美海。「こんな幸せが、365日ずっと続きますように」そう願っていた2人。しかしある日、湊は突然別れを告げ、美海のもとを去ってしまう。沖縄と東京という2つの都市を舞台に、20年の時を超えた、切なすぎる純愛ラブストーリーが誕生する。