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の名言・格言
西郷隆盛の名言・格言
西郷隆盛の名言(5)
西郷先生に従って、犬を走らせて兎を追い、山谷をめぐり歩いて終日狩りをして過ごし、一軒の農家に宿を借り、風呂から上がって、爽快きわまりないといったご様子で、ゆったりと、君子の心はつねにこのようにさわやかなものであろうと思う、と言われた。
- 西郷隆盛 -
自分の身を慎み、心を正して、君子の体を備えていても、事にあたって、正しく対処できない人は、木の人形と同じだ。
たとえば、突然数十人の来客があった場合、どんなにもてなしたいと思っても、前もって器具や調度の備えをしていなければ、ただおろおろと心配するだけで、もてなすことなどできはしない。
つねに備えをしておくなら、何人であろうとも、数に応じてもてなすことができよう。
だから、普段の準備が大事なのだといって次の古語を書いてくださった。
文は鉛と板のことをいうのではない。
必ず事を処する才がある。
武は剣と楯のことをいうのではない。
必ず敵をはかる智がある。
才智のあるところは一箇所のみなのだ。
- 西郷隆盛 -
物事に取り組む際、自分の思慮の浅さを心配することはない。
およそ思慮というものは、黙って座り、静かに思いをめぐらしているときにすべきことである。
そのようにすれば、有事のときには、十のうち八、九は実行されるものだ。
事件に遭遇して、はじめて考えてみても、それは寝ているときに夢の中で奇策やすばらしい思いつきを得たとしても、朝起きたときには、役に立たない妄想のたぐいが多いのと同じである。
- 西郷隆盛 -
漢学を勉強した者は、ますます漢書から道を学ぶのがよい。
人が踏み行うべき道は、この天地のおのずからなる道理であるから、東洋・西洋の区別はないのである。
もしも現在の万国対峙の形勢について知りたいと思うならば、漢書の「春秋左氏伝」を熟読し、さらに「孫子」で補えばよい。
当時の形勢も今の情勢とほとんど大差ないだろう。
- 西郷隆盛 -
急速は事を破り、寧耐は事を成す。
※ 寧耐(ねいたい)とは、心静かに落ちつきはらって、迫りくる困難や苦痛に耐えること
- 西郷隆盛 -
思い切ってやりなさい。
責任は私がとる。
- 西郷隆盛 -
世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵のように儚く消え去ってしまうものである。
- 西郷隆盛 -
小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。
己を利する者は私、民を利する者は公なり。
公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ。
- 西郷隆盛 -
徳に勤むる者は、これを求めずして、財自から生ず。
- 西郷隆盛 -
正論では革命をおこせない。
革命をおこすものは僻論である。
※ 僻論(へきろん)とは、偏っていて道理に合わない論のこと
- 西郷隆盛 -
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
概要
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書名の由来
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本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。葉とは「言の葉」言葉を意味するとも言われている。
内容
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『葉隠』は一般の武士を対象にした武士道論ではなく、藩主に仕える者の心構えと佐賀藩の歴史や習慣に関する知識を集めたものであった[1]。江戸時代には公開が憚られ、一部の人々にしか知られていなかった[1]。
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山晩年の著作『武道初心集』とも共通するところが多い。
江戸時代はじめ、幕府の意向で中央に近いところでは儒教的な服従と秩序と規律の価値が重視され、武士は役人としての仕事にあくせくしていた。しかし江戸から遠ざかるにつれ、教養のある人々のところから、もっと鬱屈した人間たちのところへ行くにつれて、中央の思想とは違った感情に人は出会うこととなる。名誉心はいっそう峻厳なものとなり、忠誠心はいやが上にも賛美され、単に有用なだけの才能を軽侮することをもってよしとする風があった。死が身近であった戦国の精神がそこには生き残っていた。山本常朝が九州の片隅、肥前(今の佐賀市)で最もラディカルな武士道の書、『葉隠』を口述しえたのはそのような背景がある[2]。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂)様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったことと、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。また、赤穂義士の切腹介錯に何人か失敗して二度斬りしている件について[3][4]、介錯人が慌てるのではなく「左様の時は先づ相控へ、何事にてなりとも力み候様に仕り、すこしすつくとなり候處をのがさず切り候へば、仕済し候と承り候由なり」と述べている[5]。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが(鍋島綱茂は吉良義央の甥、吉茂・宗茂は義甥にあたる。また、「主君のために命を捧げるは愚か」「二君に仕えるべし」とする山鹿流は吉良氏と昵懇だった津軽・松浦両家に伝承された[6])、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が肝要とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
浮世から何里あらうか山桜 常朝 白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
明治時代以降の『葉隠』受容
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1906年(明治39年)3月23日、聞書一・二を中心に分量を五分の一ほどにした中村郁一編『葉隠』(東京・丁酉社)が刊行され、天皇に献上された[1]。この天覧と乃木希典の威光を借りて、1911年(明治44年)2月15日には『鍋島論語葉隠』(平井奎文館)と題名を変えて再版された[1]。そして、『葉隠』を有名にしたのは、佐賀出身の軍人たちの活躍であった[1]。1932年(昭和7年)1月の佐賀郡北川副村新鄕出身の古賀伝太郎連隊長の戦死、同年2月の「爆弾三勇士」の戦死、同年3月の空閑昇少佐の死を、1932年3月『肥前史談』5巻3号が「葉隠精神の発露」と題して以降、『葉隠』は忠君愛国精神のシンボルとなった[1]。
明治中期以降、アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸稲造の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、現在では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。戦後、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、[要出典]各新潮文庫で再刊された。
また、『葉隠』は処世術・ビジネス本としても受容され、もともとは藩に属する奉公人の心構えを説いたものであるが、『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、会社勤めの現代のビジネスマンにも重なるところが共感を呼んで『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
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『葉隠』の記述の中で特に有名な一節であるが、『葉隠』の全体を理解せず、ただとある目的のためには死を厭わないとすることを武士道精神と解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。[7]
しかしながら、そのような解釈は全くの見当違いである。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」で始まる一節は、以下のようなものである[8]。
原文
二つ〳〵の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。(中略)二つ〳〵の場にて、図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。
現代語訳
どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。(中略)そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。私も含めて人間は、生きる方が好きだ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。(しかし)図にはずれて生き延びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。
『葉隠』 は人の「生きる理由」に着目する。「死ぬよりも生きることを優先する」という人間大多数の原則には必ず何らかの理由があると説く。しかし常にその理由を意識し続けているわけではなく、一度でも忘れてしまえば腰抜けに生きるようになり、人生そのものが台無しになるだろう。
そこで死の覚悟を不断に持することによって、自らの生きる理由を見つめ直し「職分を落ち度なく全うする」べきであると説く。武士として恥をかかず、また人間として有意義に生きるために、死ぬ覚悟が不可欠と主張しているのである。このように『葉隠』は死を礼讃しているのではなく、むしろ人生観について説いたものである[8]。
刊本
謝辞
二十五周年記念版への謝辞
序文(トミー・シェルビー)
序文 人種契約──時代はめぐる
序 章
第一章 概説
人種契約は政治や道徳、認識論にかかわる。
人種契約は歴史的現実(アクチュアリティ)である。
人種契約はひとつの搾取契約であり、ヨーロッパ人によるグローバルな経済支配と白人の国民的人種特権をもたらす。
第二章 詳述
人種契約は場所を文明的なものと野生的なものに区分けすることで空間を規範化(そして人種化)する。
人種契約は人間と隷属人間という区分をもうけて、個人を規範化(そして人種化)する。
人種契約は近代における社会契約を裏書きし、しかもつねに書き換えられる。
人種契約は暴力とイデオロギー的調整によって強化される。
第三章 「人種契約」理論の「自然化された」利点
人種契約は道徳的な白人主体(の大半)がもつ現実的な道徳/政治意識を歴史的に追跡する。
人種契約こそが白人の道徳的/政治的慣習の真の決定要因であり、今後批判されるべき真の道徳的/政治的合意であると非白人たちはこれまでずっと気づいていた。
理論としての人種契約論は、世界の政治的/道徳的現実を解き明かし、規範的な理論を導くという点で、人種なき社会契約よりも優れた説明力をもつ。
訳者あとがき
原注
索引
現代の民主主義国家が自明の前提とする社会契約論はその根底にレイシズムをはらんでいる。ホッブズ、ロック、ルソー、カントからロールズにいたる白人のための政治哲学を書き換え、あらゆる政治体制の基本構造に埋め込まれた人種差別契約を打ち砕くためにわたしたちはいかに思考すべきか。批判的人種理論の射程を大きく広げたブラック・ラディカリズムの名著、邦訳成る。
チャールズ・W・ミルズ(ミルズ チャールズ ウェイド)
(Charles Wade Mills)
1951年イギリス生まれ。西インド諸島大学で物理学を学んだのち、トロント大学で哲学の博士号を取得。ニューヨーク市立大学大学院センター、ノースウェスタン大学で教授を務める。おもな著書にFrom Class to Race: Essays in White Marxism and Black Radicalism (Rowman & Littlefield, 2003), Radical Theory, Caribbean Reality: Race, Class and Social Domination (University of the West Indies Press, 2010)など、共著にThe Contract and Domination (Polity, 2013)がある。2021年逝去。
赤楚衛二&上白石萌歌、沖縄ロケで“抜群コンビネーション”発揮 撮影裏エピソード&メイキング写真公開【366日】
上白石萌歌、赤楚衛二/場面写真より(C)2025映画「366⽇」製作委員会
【モデルプレス=2024/11/21】俳優の赤楚衛二が主演、上白石萌歌がヒロインを務める映画『366日』(2025年1月10日公開)より、ロケ地・沖縄での場面写真とメイキング写真が解禁された。 【写真】上白石萌歌、華やかノースリーブで素肌魅せ ◆赤楚衛二&上白石萌歌、2作目共演で抜群コンビネーション発揮 本作の撮影は2024年6月から約2ヵ月間にわたって実施。前半は東京と関東近郊、後半は沖縄で撮影というスケジュールで、6月末にキャスト・スタッフが沖縄に移動したころにはすでに真夏の暑さであった。沖縄の初日はセミの鳴き声が響く中、HYも通った与勝高校の屋上にて高校時代のシーンを撮影することに。 主人公の真喜屋湊を演じる赤楚と、ヒロイン・玉城美海役の上白石は本作が2作目の共演となり、東京でのクランクイン当初から打ち解けていた様子。目を開けるのも苦労するような日差しの下で、より自然な動きややりとりを相談しつつ演じ、抜群のコンビネーションを見せていく。本作のメガホンをとる新城毅彦監督とも話し合いながら、きらきらした青春の1ページを丁寧に表現していった。 沖縄の撮影で印象的なのが、その美しい海や自然が感じられる数々のロケ地。劇中、2つのビーチが湊と美海の思い出の場所として登場するが、これは製作チームがロケハンを重ね、沖縄に数多あるビーチをほとんど訪れた中から、こだわって選び抜いた場所。今回、そんな2つのビーチでの撮影の裏側エピソードが公開された。 ◆赤楚衛二&上白石萌歌、ビーチ撮影で笑顔 1つ目めの赤墓ビーチでは、湊と美海が初めて言葉を交わし、美海が“世界で1番おいしいサータアンダギー”を湊に手渡す。シーン冒頭では、湊は1人で砂浜に寝そべっている設定のため、赤楚はここでも強い日差しを浴びながら演じることに。上白石は、サータアンダギーをどう扱うのが自然か、袋から出したものをどう違和感なく渡すのか考え、新城監督や赤楚に実演してみせる。 さらにこのシーンの重要ポイントである、とびきりおいしそうにサータアンダギーを頬張る美海の姿をチャーミングに体現。その笑顔で、湊の心だけでなく周囲もパッと明るくしていく。ちなみに、この赤墓ビーチではクライマックスシーンも撮影されているほか、空き時間に赤楚がヤドカリを見つけたり、HYが差し入れを手に見学に訪れ赤楚、上白石と談笑するなどと撮影以外の思い出も。 本作でロケ撮影を行ったもう1つのビーチが、沖縄本島から海中道路でつながる離島・浜比嘉島のシルミチュー公園傍にある砂浜。ここでは、高校の卒業式を終えて1人で物思いにふけっていた湊と、湊を追ってこの場所にきた美海がある大切な会話を交わすシーン。 波打ち際で、足先を水につけながら歩く2人。赤楚と上白石は、立ち止まるタイミングなども監督と相談しながら、それぞれの心情を大切に演じていく。実は暑さで、まるで温水プールのような水温なのだが、そんなことは全く感じさせない。ここでの空き時間には、上白石が小さな白い貝殻を見つけてスタッフに披露。いつも穏やかな笑顔の2人のおかげで、現場の雰囲気は常になごやかだった。 ◆「366日」撮影のハードルが高かったシーンとは? そのほかに新城監督が沖縄で最も印象的だった撮影場所の1つに挙げているのが、海中道路のシーン。海中道路は沖縄本島と離島を結ぶ約5キロの道路で、その名の通り海の真ん中に造られている。湊が1人で自転車をこぐシーン、湊と美海がそれぞれの自転車に乗り2人で走り抜けるシーン、そして美海が、中島裕翔演じる幼馴染の琉晴のバイクの後部に座る2人乗りのシーンなどを撮影したが、どれも美しい海をバックに疾走感あふれる映像となった。 なかでも特に撮影のハードルが高かったのがバイクの2人乗り。バイクを牽引し、車線を封鎖しての大掛かりな撮影となるため、代案も探られたが、監督が熱望して敢行したシーンで、本作の見どころの1つとなっている。またビーチや海中道路に加え、CDショップや公園、海沿いのバス停などでも撮影。沖縄の美しい風景が、湊と美海の切ないラブストーリーを彩る。 ◆HY「366日」映画化 『366日』は、叶わぬ恋を歌った失恋ソングとして2008年に発表され、今なお世代を超えて愛され続けている楽曲。本作では、その楽曲をモチーフに、映画オリジナルのストーリーが紡がれる。 2003年、沖縄に住む高校生・湊は、同じ高校の後輩・美海と出会う。同じ音楽が好きな2人は自然と惹かれ合っていき、湊の卒業式の日に告白し付き合うことに。母を病気で亡くし、音楽を作るという自分の夢を諦めかけていた湊だったが、「いつか湊先輩が作った曲、聴きたいです」という美海の言葉に背中を押され、東京の大学へ進学。2年後、美海も上京し湊と再会、東京での2人の幸せな日々が始まる。 音楽会社に就職が決まった湊と、通訳という自分の夢に向かって頑張る美海。「こんな幸せが、365日ずっと続きますように」そう願っていた2人。しかしある日、湊は突然別れを告げ、美海のもとを去ってしまう。沖縄と東京という2つの都市を舞台に、20年の時を超えた、切なすぎる純愛ラブストーリーが誕生する。
人が踏み行うべき道を実践するのに、身分が尊いか卑しかなどといったことはまったく関係がないことだ。
昔、尭・舜(中国古代の伝説上の帝王)は国王として政治の一切を行っていたが、二人の本質というのは、正しい道を人々に教える教師である。
孔子は魯の国をはじめどこの国にも用いられず、何度も困難な苦しい目に遭い、身分の低いままに生涯を終えたが、三千人の子弟は、みな教えられた道を実践したのである。
- 西郷隆盛 -
人が踏み行うべき道を実践する者には、困難な苦しいことはつきものであるから、どんな難しい場面に立っても、そのことがうまくいくかどうか、その身が生きるか死ぬかといったことなどどうでもいいことなのだ。
物事をなすには上手下手があり、物によってはよくできる人、あまりできない人もある。
そのことに動揺する人もあろうが、天の道を実践するという点では上手下手もなく、できないという人もないものなのだ。
だから、ひたすら道を行い、道を楽しみ、もし困難に遭い、それを乗り切ろうと思うならば、ますますその道を実践し楽しむという心を持つがいい。
私は若い時から、困難という困難に遭って来たので、今はどのようなことに出会っても動揺することはない。
それだけは幸せである。
- 西郷隆盛 -
人が踏み行うべき道を実践する者が、世間の人がこぞってそしっても決して不満をいわず、世間の人がこぞってほめても自分に満足しないのは、信念が厚いからである。
そのような人物になるには、唐の韓愈の書いた「伯夷頌」(忠義の士、伯夷・叔斉兄弟をほめ称えたもの)を熟読してしっかり身につけるべきである。
- 西郷隆盛 -
人が踏み行うべき道を実践しようとする者は、偉業を尊ばないものである。
北宋の司馬温公(司馬光)は、寝床で語る言葉さえ、人にいえないようなことはないといわれた。
独りを慎むということの真意はいかなるものであるかわかるであろう。
人の意表をつくようなことをして、一時的にいい気分に浸るのは、未熟者のすることで、戒めなければならないことだ。
- 西郷隆盛 -
普段から踏み行うべき道の実践を心がけていない人は、大事に直面すると狼狽し、正しく対処できないものだ。
たとえば、近所で火事が発生したとき、普段から心構えのできている者は動揺することなく、てきぱきとこれに対処することができる。
しかし、普段から心構えのできていない者は、ただ狼狽して、うまく処理することなどできない。
それと同じことで、普段から道の実践を心がけている人でなければ、大事に直面したとき、すぐれた対策はできない。
私は先年の戦い(戊辰戦争)の出陣の日、兵士に向かって自軍の備えが十分であるかどうか、ただ味方の目で見るのではなく、敵の心になって一つ突いて見よ、それこそ第一の備えであると指示したことがある。
- 西郷隆盛 -
人を言いくるめて、陰でこそこそ事を企てる者は、たとえそれがうまくいったとしても、物事を見抜く力のある者から見れば、醜いことこの上もない。
人に提言するときは、公平かつ誠実でなければならない。
公平でなければ、すぐれた人の心をつかむことはできないものだ。
- 西郷隆盛 -
聖人や賢人になろうとする志がなく、昔の人が行った史実をみて、とてもこのようなことは自分にはできないというような心であったら、戦いを前に逃げるよりも、はるかに卑怯なことだ。
朱子(南宋の儒学者)も抜き身の刀を見て逃げる者はどうしようもないといわれた。
真心をもって聖人・賢人の書を読み、その行いの根底にある精神を、自分の心身で体験するような修業をしないで、ただ成人・賢人の言葉や行いを知ったところで何の役にも立たない。
私は今、人のいうことを聞くに、いかにもっともらしく論じても、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけのことであるならば、少しも感心しない。
実際に行動する人を見ると、実に立派だと感じるのである。
聖人・賢人の書をむなしく知識として読むのであったら、たとえば人の剣術を傍観しているのと同じで、少しも身につかない。
身につかなければ、万一立ち合えと言われたら、逃げるよりほかないであろう。
- 西郷隆盛 -
この世の中で後の世でも信じ仰がれ、喜んで従おうとするものは、ただ一つ誠の心だけである。
昔から父の仇を討った人はたくさんいるが、その中でひとり曾我兄弟だけが、今になっても子どもや女性にいたるまで、知らないものがいないのは、多くの人にぬきんでて誠の心が厚いからである。
誠の心がないのに世間の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。
誠の心が厚ければ、たとえその当時に知る人がなくても、後の世に必ず理解してくれる人があらわれるものだ。
- 西郷隆盛 -
世間の人がいう機会とは、たいてい思いがけずに得た幸運のことを指している。
しかし、真の機会というのは道理に適い、時の勢いを正しく把握して行動する場合のことだ。
かねて天下国家を憂える真心が厚くないのに、ただ時の弾みに乗って成功した事業は、決して長続きはしないものだ。
- 西郷隆盛 -
今の人は、才能や知識があれば、事業というのは思いのままにできると思っているが、才能にまかせて行うことは、危なっかしくて見ておられない。
しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。
肥後の長岡先生(熊本藩家老の長岡監物)のような君子は、今は似ている人ですら見ることができなくなった、と嘆かれて次の古語を書いて与えられた。
天下は、誠にあらざれば動かず、才にあらざれば治まらず。
誠の至る者その動くや早し。
才のあまねき者その治むるや広し。
才と誠と合して、しかる後事なるべし。
『博徒外人部隊』(ばくとがいじんぶたい)は、1971年に公開された日本映画。配給は東映。監督は深作欣二。脚本は神波史男、松田寛夫および深作欣二。主演は鶴田浩二。 『博徒シリーズ』第9作目。
スタッフ[編集]
- 監督・脚本:深作欣二
- 脚本:松田寛夫、神波史男
- 企画:俊藤浩滋、吉田達
- 撮影:仲沢半次郎、出先哲也
- 録音:内田陽造
- 照明:梅谷茂
- 美術:北川弘
- 音楽:山下毅雄
- 編集:田中修
- 助監督:寺西国光
- 擬闘:日尾孝司
- 進行主任:伊藤源郎
- 装置:石井正男
- 装飾:武井正二
- 記録:宮本衣子
- 現像:東映化学
- 協力:琉球映画貿易、丸屋厨房不動産部、平和会館、琉球ホール、オリオンビール、浦添市ホテル和豪、沖縄山一物産
出演[編集]
- 郡司益夫:鶴田浩二
- 与那原:若山富三郎
- 関進:渡瀬恒彦
- 比嘉照美:工藤明子
- 次郎:今井健二
- イッパツ:曽根晴美
- オッサン:由利徹
- 大場栄作:内田朝雄
- 鮫島:室田日出男
- 具志堅:諸角啓二郎
- 次郎の舎弟:北川恵一
- 波照間の子分:長谷川弘
- 医者:沢彰謙
- 日下部:高品格
- 大東会組員:日尾孝司
- 港北会会長:河合絃司
- 次郎の舎弟:三浦忍
- 関の女:小林千枝
- 大東会組員:花田達、久保一
- 具志堅の子分:植田灯孝
- 与那原の子分:吉野浦朝治、中曽根一
- カーター:オスマン・ユセフ
- モリソン:レイ・ボスマン
- 殺し屋:ウイリー・ドーシー、カールトン・スミルニー、ルーズベルト・サリン、オベラ・エドワーズ
- 波照間:山本麟一
- 貝津敏:中丸忠雄
- 尾崎:小池朝雄
- 工藤登:安藤昇
国内最大規模ショークラブ「Churasun6 Okinawa」が 那覇松山に5月30日グランドオープン
沖縄から全国の様々な施設の、デザイン・設計・施工・空間プロデュースを手掛ける、FND(エフエヌディ)株式会社(所在地:沖縄県那覇市松山、代表者:梶岡 之誠)は、沖縄県那覇市松山の旧ナムラホール跡地に、施設面積約220坪のエンタメショーが楽しめる新しい遊び場「Churasun6 Okinawa(ちゅらさんしっくす おきなわ)」を創造。
今回のコンセプトは宇宙船の底をイメージし、ダンサー、アーティスト、DJ達もが「一度は出演したい」と熱望するようなステージを構築いたしました。

ど迫力のステージエリア席
本施設は、過去類を見ない圧倒的な演出の数々とこれまでの沖縄には無い空間を創造し、店内の内装は、すべて同社FND 梶岡が手掛け、約400台の演出照明がダンサーを輝かせます。
舞台には大型のLEDビジョンを設置、音響は世界最高峰スピーカーd&b無指向性スピーカーラプソンのコラボレーション。
圧倒的音圧がキャストの歌、ダンスをよりいっそう盛り上げます。

約400台の照明演出
それ以外にも様々な仕掛け満載で訪れた皆様に感動、笑い、涙、非日常をお届けするショークラブとなっており、県内外から多くのお客様のご来場を心よりお待ちしております。
また、地元ダンサー・全国のダンサーさんも連日連夜ダンスの練習に励み、Churasun6スタッフ、FND株式会社が運営するcozy beachスタッフも緊急参戦し全員で沖縄の夜に新たなエンタメスポットを創造する事を目標にオープンにむけて邁進してまいりました。
沖縄ナイトコンテンツの新たなランドマークとして最高のショーをお届けいたします。
5月30日グランドオープン、日本最大規模のエンタメショーをご堪能ください。
ステージ間近でショーを見ることも可能です!
■店舗概要
店舗名 :Churasun6 Okinawa(ちゅらさんしっくす おきなわ)
開店日 :2024年5月30日(木)グランドオープン
所在地 :〒900-0032 沖縄県那覇市松山1-5-1 ナムラプラザビル2F
アクセス:松山交差点より徒歩2分
営業時間:■1部公演
OPEN 20:30|START 21:00
■2部公演
OPEN 22:30|START 23:00
※料金
ノーマルプラン 4,500円
ど迫力プラン(後方) 5,500円
ど迫力プラン(前列) 6,000円
超ど迫力プラン 6,500円
プレミアムプラン 8,000円
*電話にてご確認お願いいたします
VIPソファー席
VVIPソファー
バーエリアカウンター
バーエリア
沖縄県民割もあるので超お得!
定休日: 年中無休
ども、さんぺいです。
沖縄県民の「ソウルフード」と言われ、数多くの沖縄そば専門店があるのはもちろん、家庭でも広く食べられており、食堂、コンビニ、弁当屋、どこでも食べられる沖縄そば。
日々沖縄そばを食べている沖縄県民ですが、実は沖縄そばの生産量がピークに達するのが年末なんです。
1年の締めくくりでもあり縁起物でもある「年越しそば」。
大晦日、沖縄のほとんどの家庭では「年越しそば」は沖縄そばが食べられています。
それぞれに拘りの麺があり、スーパーでは沖縄そば麺の争奪戦が繰り広げられます。
皆さん、今年はどのそばにしますか?
今回は、製麺所ごとの麺に着目し、食べられるお店もセットで紹介します。
あなたの推し麺も教えてください!
1.照喜名製麺所
まず紹介したいのは沖縄で大人気の「照喜名製麺所」。
年末が近づくと争奪戦が勃発し、ネット上でも「売り切れてた!」と悲鳴が聞こえ「照喜名難民」が発生するほど。
「照喜名じゃなきゃダメ」という熱狂的ファンの多い麺です。
人気の理由は、独特の細かく強い縮れと硬めの食感。
「照喜名ウェーブ」の愛称で親しまれている「縮れ」が一度食べると忘れられないインパクトを残します。

照喜名製麺所の麺が食べられる沖縄そば専門店は数多くあるのですが、一つお薦めするとしたら宜野湾市の『ヨネハマ』。
動物系のスープに拘り、塩軟骨ソーキが絶品なお店です。
2020年オープンの比較的新しい店ですが、丁寧な沖縄そばづくりで地元をはじめ多くのファンを獲得しています。
パンチある動物系スープに合わせるのが照喜名製麺所の縮れ麺。
「照喜名ウェーブ」がスープに絡みまくります。
歯応えもしっかりで、スープのインパクトに負けない力強い麺。
そして、口内で暴れるような存在感。
焼きそばで楽しむ方も多いようです。
2.亀浜製麺所
こちらも定番中の定番「亀浜製麺所」。
ストレートの長めの細麺で、コシのある食感が特徴。
多くのファンを持ち、沖縄そば専門店でも広く扱われています。
いつ、どこで食べても美味しいと感じる安定感、私も「亀浜」麺に魅了されている一人。

「亀浜製麺」と言えばやっぱり『玉家』じゃないでしょうか。
説明不要だと思いますが、南城市大里に本店がある沖縄そばの人気店『玉家』。
老若男女に愛され、沖縄そばのランキングをやれば必ず名前が挙がるお店。
『玉家』とセットで語られることの多い「亀浜」麺。
間違いなく、「亀浜製麺所」を有名にしたお店の一つだと思います。
あっさりとした鰹出汁の効いたスープに細麺を組み合わせた沖縄そばは一種の発明でした。
ストレート麺の啜り心地、そしてのど越し、どれも最高です。

毎日食べても飽きないのが、沖縄そばの麺料理としての良さだと思うのですが、『玉家』はまさにそれを体現したようなそば。
シンプルなんだけどそこが良いんですよね。
3.三角屋製麺所
沖縄本島北部を代表する製麺所と言えば「三角屋製麺所」。
「三角屋」と聞くと、幅広の平打麺を誰もが思い浮かべるのでは。
数ある沖縄そばの麺の中でも最もインパクトのあるルックス。
「きしめん」のように、平たくて、幅の広い麺なんです。
この幅広の麺が、独特の啜り心地と、噛み応えを生み出しオリジナルの味わいに。
沖縄本島北部の方に長年愛されている麺です。

北部地域一帯で広く扱われている「三角屋製麺所」の麺。
どのお店でも食べることができますが、一つお薦めするとしたら『山原そば』。
復帰直後の1973年創業で、50年近くになる沖縄そばの名店です。
『山原そば』名物の本ソーキと、平麺の共演。
幅の異なる混合麺になっており、個性的な食感を生み出します。
もっちりとした麺が、出汁の旨みがストレートに感じられる直球なスープに良く合います。
4.西崎製麺所
「西崎製麺所」は、数多くの沖縄そば専門店の特注に対応している製麺所。
麺の太さ、形状、茹で麺、生麺など本当に多種多様なので、知らないうちに食べている可能性も大だと思います。
まさに沖縄そばの名店製造工場。

「西崎製麺所」の麺を提供している沖縄そば屋さんは本当に多いのですが、私の独断的好みでお薦めなのが那覇市にある『SOBADAY』。
『SOBADAY』=「沖縄そばの日」という直球すぎるユニークなネーミング。
名前からもう店主さんの沖縄そばへの情熱が伝わってきますよね。
有名ラーメン店で修業経験もある店主が作る拘りの沖縄そば。
厚みのある力強いスープです。
注目してほしいのが「西崎製麺所」の麺。
中細のストレート麺ですが、本当に硬さが絶妙なんです。
コシがあるのはもちろん、もっちり感も感じられる最高の仕上がりで提供してくれます。
5.知念製麺所
沖縄本島中部地域で人気なのが、1958年創業の老舗「知念製麺所」。
沖縄そば麺の面白いところは、県内各地に製麺所があって地域毎に馴染の麺がある点。
スーパーでも扱っている麺が違うんです。
「知念製麺所」も複数の麺がありますが、個人的にはもちっとした食感が大好き。

知念製麺所」の麺が食べられるお薦めのお店は、沖縄市の『みなみ』。
沖縄自動車道「沖縄南IC」からすぐという好立地にあり、地元でも人気の沖縄そば屋さんです。
豚と鰹、昆布、鶏ガラなどから出汁を取っているとのことで、魚介系の旨みが際立ったスープ。
ひと口目から一気に引き込まれます。
酸味やえぐみがなく、すごくクリアな味わい。
繊細なスープに合わせるのが「知念製麺所」の麺。
店名を冠した「みなみそば」では全粒粉入りの麺を使用。
風味が豊かで、ゆっくりと味わいたくなる麺になっています。
6.伊佐製麺所
那覇の製麺所と言えば三原にある「伊佐製麺所」。

『あやぐ食堂』など多くの食堂で採用され、南部の人にとっては馴染みのある味。
中太で厚みのあるどっしりとした麺は、まさに沖縄そばのイメージそのもの。
那覇市三原の製麺所には、テイクアウト用の窓口も設置されていて、その場で沖縄そばがいただけます。

「伊佐製麺所」も取り扱いのお店が多くありますが、個人的お薦めは、那覇市港町にある『パーラー徳ちゃん』。
名前のとおり港湾地帯にあるパーラーで、早朝4時から16時までの営業。
30年以上の歴史があり、実は、沖縄そば好きの間では沖縄そばの美味しさも有名なんです。

『パーラー徳ちゃん』の麺は「伊佐製麺所」。
「やっぱこれだよ」と言いたくなる中太の沖縄そばの麺。
ほおばって食べる美味しさがあって、私の世代からすると最も「沖縄そばらしい」麺です。
7.古謝製麺所
沖縄そばには地域毎に個性があり、特に離島である「宮古そば」「八重山そば」が有名です。
それぞれ形状が異なり、島ごとに有名な製麺所があります。
宮古そばを代表する麺が「古謝製麺所」。
沖縄本島のスーパーでも購入でき、スープも販売しているので、「宮古そば」を食べたい方にお薦め。
特徴は沖縄本島の麺と異なるストレートの形状。
滑らかな啜り心地を生み出します。
「古謝製麺所」の麺は、さらにもっちり感も魅力。

本場宮古島では、『古謝そば屋』も営まれています。
なんと創業は、1932年(昭和7年)。
戦前から続く現役の沖縄そば屋は、沖縄本島を含めてもごく限られており、沖縄そばの歴史を知る上でも貴重。
まさに沖縄そば界のレジェンドなんです。
鰹出汁の効いたあっさりとしたスープに合わせる麺。
この啜り心地はやっぱり「宮古そば」と思う麺で、食感も絶妙です。
ああ、だんだん沖縄そばが食べたくなってきた、大晦日が待ちきれませんね。
大阪の大阪による大阪のための構想なのか? 日本維新の会がこだわる「副首都」の要件を巡り、各地の政令市長から異論が相次いでいる。 【写真まとめ】副首都に思惑さまざま、各都市のシンボル 「やろうと思えば、手を挙げた名古屋だって目指すこともできるし、福岡市も周辺市と一緒になれば、これはできる」 維新の吉村洋文代表(大阪府知事)は24日、大阪以外の都市からも副首都への関心が高まっていることを歓迎する一方、「副首都にふさわしいのは(大阪)都構想」と、副首都の要件はあくまで政令市廃止・特別区設置であるべきだとの考えを譲らなかった。 都構想の根拠法、大都市地域特別区設置法(大都市法)は、その人口要件を政令市単独または隣接市町村を含めて「200万人以上」としている。現状、政令市単独で特別区になり得る都市は大阪、横浜、名古屋の3市に限られる。 維新創設者の橋下徹氏は副首都の要件を狭めず、大阪は都構想、他の都市は選択制にして、政令市が道府県の権限も併せ持つ特別市も入れてはどうかと提案する。だが、吉村氏は特別市は「制度化されていない」とし、「基本的に政令市は大都市法を嫌がるし、都道府県は特別市を嫌がる。そういう構図になっている」とかたくなだ。 ◇他の政令市からは異論 人口約167万人の福岡市。高島宗一郎市長は、南海トラフ巨大地震で同時に被災するリスクを避ける意味でも「福岡は(副首都の)適地だ」と主張する。9日の記者会見では、「大阪による大阪のためだけみたいな議論にするのはすごくもったいない」とし、「ぜひ広くいろんな場所も想定しながら、どういうバックアップ機能の配置が国家として一番いいのかを考えていただきたい」と呼び掛けた。 特別市を目指す名古屋市の広沢一郎市長は、名古屋を「副首都にふさわしい」とする一方、市を廃止して特別区にする考えは「今のところない」と否定する。10月の会見では「副首都になるために特別区の議論をしていくのもちょっと何だ」と疑問を呈した。 指定都市市長会長を務める神戸市の久元喜造市長も12月25日の会見で「副首都構想というものと大都市制度が密接不可分かどうかは疑問だ」と指摘。その上で、「年来主張してきた特別市制度の創設を含む多様な制度の有りようを議論する一つのチャンスではないか」と受け止めた。 横浜市の山中竹春市長は9月の会見で「強固な都市基盤を目指すために特別市を提唱してきた。多極分散の社会を作ることが日本の成長や安心につながる」とし、「日本全体の地方自治のあり方を国会で議論してほしい」と求めた。 ◇京都市長「市の消滅考えていない」 「何らかのステータスを得るために、安易に市域を統合した方がいいという考え方には立っていません」 かつて首都だった京都市の松井孝治市長は12月3日の会見でそう述べ、「京都市を消滅、統合の対象としては考えていない」とした。一方、首都機能の一極集中は避けるべきだとの考えを示し、「関西圏がその一端を担わなければならない自負はある」と言及。 文化庁の移転を踏まえ、「長い間、皇族がお住まいになり、今も御所が存在する街であり、文化財の集積度、生活文化の豊かさという意味で京都が文化的に大きな役割を担っていくべきではないか」と述べた。 ◇与党内、自民とは距離も 与党内でも維新と自民党の間には、溝が見え隠れする。自民は大阪府連が党本部に都構想と副首都の議論を切り分けるよう要望した。中央では、副首都を議題に両党の実務担当者による協議が進行中だ。11月11日の初会合では自民の宮下一郎元農相が「我々の準備している構想は、いわゆる都構想というコンセプトは入っていない」と述べ、温度差をにじませた。 年内に予定していた論点整理も年明けに持ち越された。自民の小林鷹之政調会長は12月25日の会見で、こう語った。「特定の一つの都市に限っていくよりも、できるだけ複数の地方が関心を持って手を挙げられるような枠組みにしていく必要がある」
