「戦争を知らない政治家」 | いわき市民のブログ I am An Iwaki Citizen.

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「真実を知らない者は愚か者でしかない。
だが、真実を知っているにもかかわらず、それを嘘という奴、
そういう奴は犯罪者だ」

ベルトルト・ビレヒト: ガリレイの生涯、第13幕

「戦争を知らない政治家」
http://sakuradorf.blog.fc2.com/?no=439

2013/12/12 21:30
タイトルは今日の東京新聞の投稿欄に掲載された89歳の女性の文である。
「以前は与党の中にも戦争体験者として平和主義の気骨のある政治家がいたが、今や戦争を知らない子供たちだけでなく、戦争未体験の政治家ばかりになってしまったと嘆いていた。」

あの過酷な戦争を体験した者だけが戦争の惨さと平和の尊さを実感できると思う。そういう意味では戦争体験時の残酷さや過酷さを体験した世代が後世代へ伝えるべきだったと思う。それを怠ってしまった私達の責任は確かに重いと思う。

私の場合、軍隊の経験者やひめゆり部隊の様な支援隊とは違って、国民学校の低学年生として戦争体験なので、穏やかなものであるが如何にヒトビトが特高警察を恐れていたか後になってわかった。

1年生の時、先生に引率されて茶の実拾いや、高学年生は松の木の根を掘り起こしに行った。学童まで動員するほど油に困窮していたかがわかる。強い北風と凍りつくような寒さの中で、校長先生が話した言葉「これは神風だ、風船爆弾をアメリカへどんどん運んでくれる」を聞いて信じてしまったこと<実際はアメリカまでたどり着いたものはほとんどなかった。>を今でも良く覚えている。

大本営放送がラジオで勇ましい軍歌とともにいつも日本軍の大勝利のニュースを流したが、実際は戦場がどんどん日本に近付いてきた。しかし、おかしいではないかというヒトは誰もいなかった{特高警察への連絡者<勿論誰かはわからない戦後も氏名は伏せられていたようである>は各町内にいたといわれる。今考えれば青年団員はそれを恐れていたような気がする。それとも大本営放送に洗脳されてしまったのだろうか?当時特高のことなど何も知らなかったので考えたこともなかった。}。

2年生になってしばらく経った頃には、グラマン戦闘機による機銃照射が激しくなり、生徒の集団登校は危険なので、近くの集会所に先生が一人きて1-6年生までの面倒をみた。
沖縄が陥落した頃、青年団員が竹薮から竹を切り出し、敵を一人一殺といって訓練を始めた。これには子供達は驚いてしまった。何故なら、機銃照射により、地面にできた銃弾でできた穴を見ていたので、竹やりでは無理なことが分かっていた。もっとも多くの青年団員の本心は子供と変わらなかったであろう。食べ物も日増しに減り、多くのヒトがひもじい思いをするようになっていた。

8月15日の玉音放送については、前日から連絡があったようで、当日は仕事のあるヒトも休んでラジオの前に大勢集まって、天皇の言葉を熱心に聞いた。
その場にいたヒトでは安堵の気持ちが一番強かったと思う、落胆はあっても、戦争継続を主張するヒトいなかった。

其の日を境に先生の言葉が180度変わるようになった。男女別学から共学になり、今日に至った。