ナチスはいかにして権力を獲得したか――麻生発言に思う | いわき市民のブログ I am An Iwaki Citizen.

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「真実を知らない者は愚か者でしかない。
だが、真実を知っているにもかかわらず、それを嘘という奴、
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ベルトルト・ビレヒト: ガリレイの生涯、第13幕

ナチスはいかにして権力を獲得したか――麻生発言に思う
http://blogos.com/article/68013/?axis=&p=1


僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。

 そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。

昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。

 わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。



・・・

外交官を務めた加瀬俊一(1903-2004)は『ワイマールの落日』(光人社文庫、1998、親本は文藝春秋、1976)でこう書いている。

 ヒトラーはナチス文献が宣伝するように、国民革命の大潮流に乗って、政権を獲得したのではない。いわば、謀略によって裏階段から首相官邸に忍びこんだようなものでもある。現に、ナチスは選挙〔引用者註:政権獲得前の〕において三七パーセント以上を獲得したことはない。だから、もし残りの六三パーセントが一致して抵抗したら、政権を奪取することはできなかったはずである。

 そうならなかったのは、まず、共産党がナチスよりも社民党を、「社会ファシズム」と呼び、最大の敵として戦ったからであり、他方、社民党が労組出身者にひきいられる無気力なプチ・ブル集団に転落し、また、中道保守派が分裂抗争を反復して、反ナチス大同団結の必要に目ざめなかったからである。中央党に到っては、最後までナチスと妥協を試みるような不見識を暴露したのである。だが、ヒトラーをして名を成さしめた最大の責任は、右翼保守派のナショナリストが負わねばなるまい。彼らは敗戦後も格別痛めつけられず、むしろ、陽の当たる場所にいたにもかかわらず、共和体制になじまず、これを敵視し、機会があればワイマール体制を打倒し、帝制を回復して昔の権力を再び握ろうと画策した。しかも、派閥抗争に勢力を徒費し、敗戦――インフレ――不況――失業の連打にうちのめされて、絶望にある大衆の救済を怠った。だから、大衆は救世の指導者が出現することを待望した。ヒトラーはこの心理を巧みに衝いたのである。(p.232-233)


 また、フランスの学者クロード・ダヴィドは『ヒトラーとナチズム』(長谷川昭安訳、文庫クセジュ(白水社)、1971)でこう書いている。

 不満と不安とにかられたドイツ国民が急進的な政党にはしり、やけっぱちになったのはむりもないところである。しかし、ここで注意しなければならないのは、右翼勢力の進出はまちがいない事実であったにしても、その進出ぶりが野火のように急であったとする説があやまりであるということである。ちなみにヴァイマル共和制時代におこなわれた選挙の結果を順をおってしらべてみるならば、社会民主党とカトリック中央党が共和制の最後まで安定した勢力をたもっていたことがわかる。〔中略〕それでは理屈にあわないということになるが、理由は簡単である。それはナチ党がすべての右翼系政党を吸収する一方、穏健派はしだいに急進的となり、人民党や民主党は姿を消していったからである。由緒ある正統右翼、国家人民党がナチ党と対立していたとする説を今日でもしばしば耳にすることがある。しかし、この国家人民党こそ金融界、産業界、国防軍などとならんで、はじめはヒトラーを買収し、やがてヒトラーの命令にいっさい服さねばならなくなったのである。のちナチ党への抵抗運動が組織されたのも、これら伝統的保守勢力のなかからであった。かつて唯一の支持者としてヒトラーに独裁者への道をひらいてやり、いままたそのゆきすぎをくいとめるために抵抗をこころみるのであるが、ときすでにおそかったのである。(p.50-51)


 確かに、ナチスは選挙で第1党となった。しかし単独過半数を得ることはできず、他勢力との連立によってようやく政権を獲得した。

 その段階においても、ワイマール体制を維持してきた既成政党である社民党や中央党は一定の支持を確保していたのであり、決して国民がこぞってナチスを支持し、熱狂したのではない。

 したがって、麻生発言の「きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきた」「ドイツ国民はヒトラーを選んだ」といった箇所は、やや問題がある。

 そして、ヒトラーはかねてから議会による民主制を否定し独裁制を採るべしと主張していたのであり、全権委任法はヒトラー内閣誕生の当然の帰結だった。そういう意味では「ある日気づいたら……変わっていた」わけでもないし、暴力を背景とした圧力により賛成させ、反対派は弾圧したのだから、「みんないい憲法と……納得して……変わっている」わけでもない。



映画「ヒトラー最後の12日間」より:「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」という進言を退けたヒトラーは、平然と「国民の自業自得(自己責任)」だとうそぶく。「(ドイツ)国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを(選挙で合法的に)選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ」