このところの朝晩の寒さは、まさに冬を思わせる。
昼間の暖かさに油断していたら、すぐにでも風邪をひきそうだ。
こんな時はゆっくり温泉にでもつかって、のんびりしたい。
美味しい料理に地酒なんて頂きながら、露天風呂で極楽気分を満喫・・・
命の洗濯とはよく言ったもので、こんな贅沢な時間を過ごせたら
本当に長生き出来そうだと心から思う。
あ~あ、至福の時を実感したい。


あっつ!そうだ。そう言えば、思い出した事がある。
私もかつて1度だけ、最高に贅沢な思いをさせて貰った事があった。
あの時は、あれだけ感謝したのに、すっかり忘れていた。
人間とは、なんて都合の良い生き物なのだ。
1度の贅沢で味わった幸せ感は、そう長続きしないって事なのか?
いやはや、自分の欲深さが情けない。
あの時の思いが残っていれば、再び温泉で命の洗濯をしたいなどと思うはずも無い。
それほどの贅沢をさせてもらっているのだ。


そう、あれは、夫からのスペシャルプレゼントだった。
理由は定かでないが、たぶん私が凄く良い事をしたに違いない。
でなければ、あれほどの思いをさせて貰えるはずが無いのだ。


私達夫婦は、温泉がとても好きである。
年に1度か2度は必ず出向く。
ただし、2人で行くって事は滅多に無い。
気の合う友人達と一緒って事がほとんどだ。


行く先は、その都度違うが、中でも群馬の草津温泉は1番のお気に入りである。
熱めのお湯と言い、豊富な湯量と言い、風情ある湯畑、出来立ての温泉饅頭の試食、
ライトアップ、河原に湧き出る温泉、とにかく、文句の付け所なく好きだ。


そんな私への、夫からのスペシャルプレゼントは、草津温泉旅行だった。
それだけで、もう大満足である。
だが、あの日は本当にいつもと違った。
宿泊先は、見慣れた手頃の宿とは違って、
玄関口を通るだけでも、高級そうな宿。
思わず、「え~~~いいの~?」と確認したくなる所だ。
私の口も、自然におとなしくなる。


客室を案内される廊下には、小さな生け花があちらこちらにあしらわれ、
行き交う人々も、皆、どこか品がある。
客室からの景色は、湯畑が一望出来、草津の情緒をおもいっきり演出している。
係りの方も控えめでありながらも、安心できる身のこなしで、
全てが心地よかった。
一流とは、こういうものなのだと実感した。


夕食は、食事処に案内された。
格子戸のある、素晴らしい個室で、大きな窓からは、
ライトアップされた庭園が眺められた。
料理は、見た事の無い様な細工がほどこされた懐石だ。
どれもが口にするのをおしまれた。


ましてや、いつに無く夫は優しかった。
私の好物が出ると、係の方が去った後、さりげなく自分の分を私に差し出す。
「え~~いいの~?」と言いつつも、
遠慮を知らない私は、早速に頬張る。
この上ない幸せとはまさにこの事かもしれない。


夕食後は、湯畑を散歩。
光に照らされた景色が一段と美しく、日頃はけして手にしない類の土産まで
買い求めてしまった。
雰囲気の魔力とはこんなものだ。


宿に戻ってからは、すぐ温泉へ。
冷えた身体がいっきに温まる。
ジワジワとにじむ汗がなんとも心地よい。
だが、その時、私の身体には、信じられない異変が起き始めていた。


部屋に戻ると、夫は一人静かに地酒を飲んでいた。
湯畑を眺めながらの一杯は格別だったに違いない。
その時だ。
扉の向こうで声がした。
なんだ、なんだ?
夫は、戸惑っている私をよそに「どうぞどうぞ」と声をかける。
入ってきたのは一人の女性だった。


なに?なに?何が始まるのだ?
女性は「こちらへどうぞ」と夫を招く。
すると夫は言った。
「お願いするのは妻の方なんです」と。
はあ~~~???わたし?わたしが何お願いするんだ?
事態が読み込めない私は、女性と夫の顔を交互に見続けた。


女性はマッサージ師だった。
夫は、私の為にマッサージ師を手配してくれていたのだ。
こんな夢の様なご褒美を貰っていいのだろうか?
こんな贅沢をさせて貰うと、なんだか罪の意識さえ芽生えてくる。
私は感激のあまり泣きそうになった。


だがその感激は、数分後、苦しみに変った。
こんな事、誰が想像しただろうか?????


生まれて初めての、プロによる全身マッサージは最高だった。
痛いながらも病みつきになる心地良さ。
まさに極楽だ。


しかし、そう思ったのも束の間、
突然私に異変が起きた。
それは、驚くほどの速さでやってきた。
前触れ無しの腹痛に襲わたのだ。
だが、この場はどう考えても我慢を強いられた。
なんたって、生まれて初めてのマッサージだ。
これを断ったら、一生利用出来ないかもしれない。
だいたい、途中で席を立つのは、失礼な振る舞いだと判断した。


ところが、時間が経つごとに腹痛は増し、
それからは、ある意味戦いだった。
指圧の場所によっては、泣き叫びたくなる様な状況が襲い、
息さえままならない。
一刻も早く、辞退すべきなのだが、
せっかくの夫の心遣いを台無しにするのも気が引け、
自分に起きている状況を説明する勇気も無かった。
よって、後半は、忍の一字。
ただただ終わりを願うばかり。
最高であるはずのマッサージが地獄の戦いだったと、
今更ながらに思わずにはいられない。


終了後、猛スピードでトイレに駆け込んだ私は、
恥ずかしながら、その日1番の至福を味わえた気がする。


ともあれ、私は温泉につかりなおし、
冷えたお腹を温め、フロントで腹痛を押さえる薬を頂き早めにやすんだ。


翌日の天気は最高だった。
私達は、帰りの見学コースを話しながら、
品の良い朝食を頂き、贅沢な時間に幕を閉じようとしていた。


その時だ。
私に再び激痛が襲った。それも夕べの痛みとは比べ物にならないものだ。
再度、薬を頂き、夫の配慮で、私達は全ての予定を返上し、
家路へと向かった。


ところが、私の状態はますますもって悪化の一途をたどった。
草津から車で1~2時間たった頃には、
腹痛の他に、異常なほどの寒気が襲い、
視界もモウロウとしていた。
私も苦しかったが、見ている夫はもっと苦しかったに違いない。


結局、その足で救急病院へ向かった。
熱を測ると40度。
異常なほどの寒気、腹部の激痛、そして激しい嘔吐が繰り返された。
私の身体にいったい何が起きているのだ?
こんな病状は生まれて初めてだった。


医師の下した診断は、
なんと、なんと、なななんと・・・。
食中毒の疑い。


はあ~~~???食中毒????
何で食中毒なんだ?
だいたい、夫は何でも無いじゃないか!
同じ場所へ行って、同じ物を食べて、私だけが食中毒になるなんて考えられない。
食中毒なんて、絶対ありえない!


しかし、私には、何かを語る力が残っていなかった。
夫は懸命に医者の質問に答え、状況を詳しく説明している。
その時だ。
夫が言ったのだ。
なんと、なんと、なななんと・・・。


「自分の分も、全て妻が食べました」と。


なにーーーーー???私が食べただと?
私が夫の分まで食べたって言ってるのか?
そりゃあ~大好きなホタテの刺身は頂いた。
いや、まつたけご飯と天ぷらも頂いた。
でもそれは、夫が差し出したからだ。
全てってのは何だ?
その言い方だと、私は2人前の夕食をたいらげた事になるじゃないか!
絶対そう聞える。


私の具合が悪い事をいい事に、なんて説明をしているんだ。
許せない!失礼にもほどがある。
元気が残っていれば、絶対に言い訳させてもらった。
だが、会話はますますもって、恐ろしい内容になった。


夫は完全に調子付いている様に見えた。
「じゃあ~ご主人の分も奥様が食べたのですね?」と医師が問えば
「はい」と迷い無く答える。
「では、奥様は2人分を食べたって事ですね」の質問にも
「はい」と又元気一杯に答える。


私は聞いているのが辛くなった。
なんだか、とっても響きの悪い会話である。
だいたい、医者も医者だ。
何度も奥さんだけが食べた食べたって言い過ぎである。


ところが問題は次の質問だった。
「ご主人は何で食べなかったのですか?」との医師に
夫は言ったのだ。
はっきりと、しっかり、迷いなく、
なんと、なんと、なななんと・・・。

「ちょっと危ないと思ったものですから・・・」と。


はあ~~~?????
ちょっと危ないと思っただあ!!
なにー!なんだとー!
何がちょっとだ!
危ないと思ったらその場で言えよ!
あれは優しさじゃなかったのか?
あったまにきた!許せない。
絶対に許せない!
何で私がこんな仕打ちを受けなきゃなんないんだ!


だが、この会話を分析すると、結論がみえてきた。
どうやら、私は食中毒の疑いが強く、
その病状は、夫の分まで食べているので、より強い中毒症状が出たって事の様だ。
要するに菌の付いた物を2人前食べた最悪な結果だ。
ましてや、腹痛を抑える為に薬を服用した事が輪を掛けたらしい。
通常の腹痛なら何の問題もない事なのだが、
食中毒に限って言えば、菌を早く外に出す必要があるのに対し、
私は薬によって、菌をお腹に閉じ込めてしまったのだ。
その結果、病状が悪化したって事である。


なんてこった。
よりにもよって、菌を付いた物を倍食べただなんて・・・。
健康まるだしの夫の元気が憎かった。


私は暫くの入院を勧められたが、丁寧に断った。
“夫の分まで食べた妻が、食中毒で入院!”
と言う言葉が脳裏をよぎったからだ。
よって完治までの道のりは長かった。


ところで、今ふと思ったことなのだが、
私はこのスペシャルプレゼントの解釈を間違っていたかもしれない。
そう言えば、理由が定かで無いのも、腑に落ちない。
不吉な予感がよぎる。
まさか?まさか?手抜き主婦に対する戒め?手の込んだ罰?
いや、それなら、心当たりがあり過ぎる。
ええ~~~っつ!!
だとしたら・・・これって・・・・・
もしかして、もしかすると、優しさを装った夫の復讐?


ぎゃあ~~~~、そそそんなあ~~。
ご褒美じゃなかったの~~~???
よ~し、今日から、真面目に家事しよっと!