若い頃は
自由さえあれば
幸せになれると思っていた
会社に縛られず
誰にも指図されず
好きな時に起きて
好きな時に出かける
憂鬱な会議も
若干同調圧力のかかる
町内会の行事もなく
気ままに暮らせたらどれほど楽だろうと
だが、実際に
自由度の高い環境に身を置くと分かる
自由とは、ただ甘い果実ではない
放っておけば
その実は確実に腐る
一人暮らしで、自営業
時間の使い方は自分次第
今日は昼まで寝ても誰にも怒られないし
仕事を後回しにしても
上司から催促の電話が来るわけでもない
予定を入れず
気の向くままに過ごすこともできる
ところが、その「何でもできる」は
ときに「何も定まらない」に変わる
朝起きる理由が曖昧になり
食事も睡眠も流れに任せ
なんとなくスマホを見て
なんとなく酒を飲み
気づけば一日が終わる
誰にも迷惑はかけていない
だが
自分の心だけが少しずつ濁っていく
そもそも収入も無くなる
自由な暮らしと
その日暮らしは
根っこが違う
人は案外
無制限の自由に強くない
会社員時代は
嫌でも生活に骨組みがあった
起床時間があり
出勤時間があり
帰宅時間があった
文句を言いながらも
他人が用意した枠の中で
日々は勝手に回っていた
今は違う
枠そのものを
自分で作らなければならない
もちろん
他人に決められた窮屈な枠に
戻りたいわけではない
会議や付き合いで
予定表が埋まる暮らしはもう御免だ
だから必要なのは
支配の枠ではなく
自分を整える骨組みである
そして
もう一つ気づいたことがある
孤独が寂しいのではなかった
孤独は寂しいものだと
どこかで思い込まされていただけだった
それが孤独の正体だ
※個人の意見です
世間は
誰かと常に一緒にいることを良しとし
一人でいる人間に
不足や問題があるかのような
目を向けることがある
だが実際には
一人でいる時間にしか
戻れない自分もいる
群れから離れてようやく整う心もある
その勘違いに気づいてから
気持ちはずいぶん楽になった
無理に賑やかな場所へ行かなくてもいい
誰かに合わせて予定を埋めなくてもいい
静かな時間を好む自分を
わざわざ矯正しなくていい
すると不思議なことに
孤独は檻ではなくなった
むしろ自由の扉だった
朝、少し散歩する
仕事は集中できる時間に区切る
酒は惰性ではなく楽しむ日に飲む
時々呑み鉄に出る
季節ごとにソロキャンプへ行く
山に登る
湯に身をゆだねる
何もしない日も
無意識に崩れるのではなく
意識して休む
そんな程度でいい
自由とは
何もしなくていい状態ではない
自分に合った秩序を
自分で選べる状態だ
流されてダラダラ暮らすことは
一見気楽に見える
しかし
自由を持て余した心は
静かに腐っていく
誰にも叱られず
誰にも見られないぶん
その腐敗は見えにくい
だからこそ
自由な人ほど
ほんの少しの規律がいる
荒野に高層ビルは要らない
雨風をしのげる小屋で十分だ
だが
その小屋があるかないかで
暮らしの安心感はまるで違う
そして時々思う
もしかすると自分は
こういう人生の物語を
あえて選んで
生まれてきたのかもしれないと
群れの安心より
一人の静けさを学ぶために
与えられた枠ではなく
自分で骨組みを建てるために
寂しさだと思っていたものの正体を見抜き
自由へと名前を書き換えるために
そうイメージすると、少し面白い
自由とは完成品ではない。素材である
どう組み立てるかで
居心地の良い家にもなるし
空き家にもなる。
