信仰というものは
本来もっと静かで、個人的なものだと思っている

 

けれど現代では、
「宗教」という言葉が出た瞬間に、
人々の間に見えない一線が引かれることが多い

 

どこかの宗教団体に属していると聞いただけで
距離を置いたり、警戒したりする

 

宗教という言葉そのものが一括りにされ
どこか怪しいものとして扱われている空気を
確かに感じることがある

 

実を言えば、
こうして信仰をテーマに文章を書くこと自体
どこかで「属性を怪しまれるのではないか」という
小さな不安もある

 

信仰について語るだけで
何かに染まっているのではないかと誤解される

 

――そんな時代の空気を
誰もがうっすら感じているのではないだろうか

 

もちろん、その背景には理由もあるのだろう。
盲信や依存、現実からの逃避、
そして世間を賑わす一連のニュース

 

そうした問題が実際に起きてきた現実があるからこそ
人々は防衛本能として宗教を疑う

 

そして気づけば、
私たちは知らぬ間に
「宗教は怪しいよね教」の信者になってしまう

 

しかし私は
宗教と信仰はどこか

別のものではないかと感じている

※個人の意見です

 

宗教とは教えや組織、儀礼といった
「形」を伴う社会的な枠組みであり、
信仰とはそのもっと奥にある、
個人の内面に静かに根を張る
生き方の姿勢のようなものだ

※個人の意見です

 

どこかに所属するかどうかとは関係なく
人はそれぞれの形で信仰を持ちうるのだと思う

※個人の意見です

 

私にとっての信仰は
日常の中にひっそりと溶け込んでいる

 

神社の前を通れば自然に頭を下げ
朝の空気の中で小さく感謝を思い浮かべる

 

誰に見せるためでもなく
徳を誇るためでもない

 

ただそうしていると心が整い
自分が世界の中に静かに収まる感覚があるからだ

 

長い歴史のある宗教の教えには
人間の本質や生活に触れる
普遍的な知恵が含まれていると感じている

 

古い経典に登場する
荒唐無稽に見える物語も
単なる空想ではなく
人間の弱さや欲望、そして救いを
象徴的に語っているのだと思う

 

だから私はそれらを
信じる対象というより
人生を読み解く知恵として受け止めている

 

そして私は、こうも考えている

 

神仏の存在を科学的に証明した人は
これまで一人もいない

 

だが同時に
「存在しない」と完全に証明した人もまた
一人もいない

 

それならば
存在しないと決めつけるよりも
存在するかもしれないと考えた方が

人生には浪漫という
心の「余裕」や「安心」が生まれるのではないか

 

――そう思うのだ

 

目に見えない世界を想像することは
非合理な迷信ではなく
人間の精神が持つ豊かさの表れだと思っている

 

自分を超えた大きな存在を思い描くことは
恐怖から生まれるのではなく
むしろ人生に奥行きと意味を与える
想像力の営みなのだ

 

ただし、その思いが

現実から遊離してはならないとも考えている

 

だからこそ私は
常識や普遍性を何より重んじる

 

信仰とは現実から逃げるためのものではなく
現実をよりよく生きるための支えでなければ
意味がないからだ

 

人は死ねば何も持っていけない


金も名誉も地位も、この世に置いていく

 

けれど、心の在り方だけは
別なのではないかと思っている

 

誠実に生きようとした姿勢
学ぼうとした意志
美しいものに心を動かした感性

 

そうしたものは
目に見えない形で
存在に刻まれていくのではないだろうか

 

だから信仰は声高に語る必要がない


むしろ、静かであればあるほど本質に近い

 

誰にも見せず
誰にも誇らず
それでも日々の中で感謝を抱き続けること

 

証明できないものを否定するのではなく
そこに浪漫を見出しながら、
現実の普遍性の中で静かに生きること

 

それが
私にとっての信仰のかたちなのである。