3月に亡くなった大江健三郎氏の追悼の動画を見て、
その中で語られていたことを少し、記します。
文学にとどまらず、多くの社会問題にも言及していた氏ですが、
その中でも大江文学の根幹は、
障害をもって生まれた光さんと、共に生きるということのようでした。
ご自身と光さんに重なるような登場人物が多くの小説に出てきて、おふたりは小説の中で違う生を生きます。
さらには、自分がいつか死ぬということをどのように光さんに理解してもらえるか、死んだ後ももしかしたら再び生まれて、そのときは一緒に生きる、ということ、
つまり”死と再生”、”祈り”が小説=大江氏のテーマとなっているということでした。
『燃え上がる緑の木』の中の主人公の父親のことば、以下に引用します。
「・・・自分が死ぬ。それ以後もなんらかのかたちで魂が
あり続ける。これまでそんなことは思ってもみなかった。
(略)
自分はいま魂を持って生きている。
そして死について考えている。(略)
そうしてみるとね、一応死んだ後も魂はある。生きている
いまとの連続性においてあると、
こうした作業仮説をたてていいんじゃないかという気がして
くる。」
スピリテュアルな考えを持っていたのは、光さんの存在と、
自ら”谷間の森”と呼んでいる辺境の土地で育ったことが関係していると思いました。
『カラマゾフの兄弟』を好んで読んでいて、
この小説は、父殺しという主テーマのほかに、
虐げられた病気の子供の物語という面もあるということです。
病気の子、イリューシャを主人公のアリューシャが慰める場面など。
ドエトエフスキーもこの小説を書く数年前に幼い子を亡くし、その名がアリョーシャということでした。
大江氏の光さんへの思いは、光さんだけにとどまらず、
世界中の子供に注がれており、
”Rejoice”(喜びを抱け)とみなに呼びかけます。
他にもたくさんありますが、私が特に感銘を受けた部分にしぼって書きました。
また、彼は”人間はみなつながっている”といってますが、
そのつながり方は多様で、過去の人とも、未来の人ともつながり得ること、文学を通してもつながり得ること、
納得しました。
また、文学はどういう読み方をしてもよいんだ、ということの
再認識と、
以前なら、小説家は小説の中で悲しみを浄化できてうらやましい、と思っていましたが、
今は、その気持ち以上に、それを読める幸せがあると感じています。