これはそのうち記事にしてみようと思っていた、祖母の主治医をした経験をご紹介したいと思います。

栄養4部作の第3回目になります 真顔キラキラ

 

 

 

家族旅行に連れていってもらえることがほとんどなかった幼少時代でしたが、定期的に父方の祖父母の家には連れて行かれました。

 

 

 

自然があふれすぎて「ど」がつくような田舎ではありましたが、幼い頃の私は田んぼの中で遊んだり、川の中で遊んだり、ミカン山に登ったりと、その大自然を満喫することがとても楽しくて、いつも日が暮れるまで遊んでいたものです。

そういったこともあり、そこそこおばあちゃんっ子であった私は、いとこたちの間でも割と祖母にかわいがってもらって育ったと思います。

 

 

 

私が医師になりそれなりに経験を積んでいくにつれ、祖母の病気は増えていき、認知機能も体力もどんどんと衰えていきました。

 

 

 

80を過ぎた頃には狭心症に糖尿病、慢性閉塞性動脈硬化症に腎臓がんを患っていました。

80後半になるころには感染症を契機とした心不全の発作を繰り返すようになり、地元のかかりけの病院に入院する回数も期間も増えていきました。

その頃、地方の総合病院で心臓血管外科の副部長として働いていた私は、父から病状の報告を受けてはいましたが、忙しさのあまりなかなかお見舞いに行くことができずにいました。

 

 

 

そんな折り、父から1本の電話がありました。

入院先の主治医から祖母の余命を宣告されたと暗い声。

心不全の治療がむずかしく、体がむくまないように点滴を減らしている。

食事が全然取れなくなっているので、あと1、2週間ももたないのではないかと。

 

 

 

そして父から一言。

どうにかしてもう少し長生きさせることはできないか。

お前が診ることはできないか?と。

 

 

 

いろいろ合併症があることは知っていました。

年齢も90間近かであり、その当時の女性の平均寿命には達しています。

本人は認知症も進んでおり、これ以上の医療行為が延命なのか、治療なのか判断は簡単じゃないなと思いました。

ただ、まだ父が祖母の死を受け入れる心の準備ができていないことだけは伝わりました。

 

 

 

部長に相談すると、二つ返事で了承してくれました。

婦長にも迷惑じゃないかと聞きましたが、喜んで対応しますとありがたいお返事。

自分に何ができるかは分かりませんでしたが、父からも私が診察して治療が無理だと判断したらそのときは受け入れるとの返事だったので、早速転院の手はずを整えました。

 

 

 

2つの県をまたいで久しぶりに会った祖母は驚くほどに小さくなっており、その表情には正気をあまり感じることは出来ませんでした。

脱水気味であったせいか、全体的に痩せ細って見えました。

私のことは認識できなくなっており、「先生よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げられた時の感情はとても複雑でした。

 

 

 

私がまずしたことは採血とレントゲン、そして心エコーです。

全身の状態を把握する必要がありますし、心臓の機能次第でどれほどの水分を点滴できるかが決まってきます。

感染症による心不全の悪化で入院していたと聞きましたが、転院してきたときの心臓の動きはそんなに悪くなく、これならそれなりの栄養を点滴で補給できるなと考えました(転院の時点では感染症も良くなっていました)。

 

 

 

採血で認めていた腎機能障害も、点滴で脱水が補正されると数値の改善を認めました。

認知機能も改善の兆しを認め、私を見知らぬ主治医から私のおじと間違えるくらいには回復しました(ちなみにおじは私の体重の2倍はある体型をしているのですが・・・あれ、認知症回復していない?)。

 

 

 

数日間の点滴の補正だけで、ある程度の元気を取り戻した祖母は、お菓子が食べたいと言い始めました。

唾の飲み込みは出来ており、喉の挙上も問題ないため嚥下機能は維持されていそうでしたが、病院食には口を真一文字につむんでまったく興味を示しません。

 

 

 

このまま点滴治療を継続していてもリハビリ施設に転院することも出来なければ、地元の老人ホームに帰ることはまず不可能です。

 

 

 

ここでポイントとなるのが、今回の治療(入院)のゴールを考えることです。

 

1.余命を宣告されたが、点滴治療をしたことで改善してきているので、今すぐの命の危険はなさそう。

2.私が働いている病院は急性期病院なので、長く患者さんを治療し続けることは原則できない。

3.そうなると転院先(できれば祖母の地元)を探す必要がある。

4.転院させるためには転院できる状態にしておく必要がある。

5.ということは点滴治療が必要ない状態にしないといけない。

6.口で食べれるくらい元気にするか、胃瘻を造設する必要がある。

 

つまり、この場合の私が設定した治療のゴールは「経口摂取ができるようにするか、胃瘻を造設してリハビリ転院ができる状態まで持っていくこと」です(そして急性期病院なのでその結論を2週間程度でつける)。

 

 

 

糖尿病になったくらい甘いものが好きだった祖母。

お菓子に対する食欲はしっかりとありました。

私の両親が見舞いに来るたびに、「お菓子をくれんしゃいね、お菓子をくれんしゃいね」とおやつを要求。

ただ、病院の食事は全然うけつけない。

 

 

 

消化機能が維持されている場合は、経鼻胃管といって鼻から栄養を投与するために細いチューブを胃に入れて、栄養剤を投与する方法が一般的ですが、見ての通りの認知症。

自分で抜いてしまうことは目に見えていました。

 

 

 

実際、点滴を何回も自己抜針してしまうので、両手にミトンをつけていましたが、それでもミトンのまま上手に点滴のカテーテルを抜いたり、ミトンを上手にはずしてカテーテルを抜いたりと、本当にどうやったの?と思うくらい上手にカテーテルを抜いていました(しかもほとんど出血していなかったり・・・ほんと上手でした)。

 

 

*ミトン はこんなやつです。

 

 

 

栄養チューブを抜かれないようにするためには、おそらくは躯幹(くかん)拘束といって体そのものを身体拘束をする必要も出てきますし、そうなるとせん妄がひどくなり何のため治療しているのかも分からなくなります(栄養投与中に抜かれると誤嚥の危険もあるので、個人的には点滴抜かれるより注意が必要と思っています)。

 

 

 

私が下した決断は、静脈麻酔と手術手技による危険はあるけど、胃瘻をいちかばちかで作ってもらうことでした。

 

 

 

消化器内科の先生は私の出身大学からの派遣でした(出身大学が同じだと妙な連帯感があります)。

CT検査の結果から、内視鏡で胃瘻を作る(経皮的胃瘻造設術)ことができるとの返事。

術中に何があっても私が責任を取りますと言って、胃瘻を作ってもらうことになりました。

もちろん、手術には私も立ち合いました。

手技中に認知症であばれる祖母を押さえ込む必要があるため(私がいたほうが多少大人しくしてくれるかなという期待もありました)で、プレッシャーをかけたいわけではなかったのですが、担当の先生はそれなりにやりずらかったかもしれません。

 

 

 

ありがたいことに全ての手技はスムーズに進みました。

祖母も軽く手を握っているくらいで大丈夫で、鎮静剤がちょうどよく聞いており、比較的大人しくしてくれていました。

数日後には胃瘻も使えるようになり、嚥下機能が落ちないように、ときどきおやつを食べてもらいつつ、胃瘻からの栄養剤の投与を増やし、点滴の量を徐々に減らしていきました。

 

 

 

胃瘻の瘻孔も完成し、胃瘻用チューブの交換も問題なく出来ることを確認し、点滴もそろそろ卒業できそうになったので、次はいよいよ転院の準備です。

 

 

 

父からはもとの病院には戻したくないとの依頼。

気持ちは分かりますが無茶ぶりだなと。

そんな話を仲の良い先生にしていると、祖母の地元にある人気のリハビリ病院の院長が大学時代の同期だったとの話。

 

 

 

すぐに地域連携室を通してその先生に状況を伝えてもらいました。

ちょうど空きがでそうなので、1週間から2週間待てるなら受け入れ可能との有難い返事。

そこの病院はとなりに老人ホームを併設しており、調子が悪いと病院に入院となり、落ち着いたら施設に戻れるという田舎にしては至れり尽くせりの病院です。

 

 

 

転院の日が目前にせまる頃には認知症(せん妄)もさらに改善し、きちんと私を孫として認識できるようになりました。

お見舞いに来ていた私の両親にむかって、

「5000円をくれんね。○○ちゃんにお小遣いばあげるけん。」

と、私にお小遣いをあげようと両親にお金を請求していました。

 

 

 

この頃には病院食も完食する(+ときどきおやつ)ようになり、胃瘻を使うこともなくなりました。

転院したあとの状況を考慮し、胃瘻はそのままとし、転院後も問題なければ抜去する方針としました。

 

 

 

転院後の祖母はさらに元気になり、もともと膝が悪かったせいで自分で歩くことはもう出来ませんでしたが、車椅子にのって外出できるようになりました。

最終的には、地元の同窓会に参加(この年齢で同窓会が継続していることに驚きましたが)したり、知事選の投票にいくことも出来るようなったと父から喜びの報告を受けました。

 

 

 

その後、併設された老人ホームにうつり、緩やかに良くなったり悪くなったりしながら私が渡米して1年後の2016年の夏に天寿を全うしました。

 

 

 

余命宣告を受けてからの劇的な回復。

認知症と思われていた症状も多くはせん妄状態から来るものだったのでしょう。

もともと親戚の中で1人だけ医者だった私は、特異な存在としてみられていましたが、祖母のあまりにもの変わりぶりに、その後、親戚の間で神(教祖?)のような目でみられ始めたのはちょっとした余談です ^^;)

 

 

 

高齢者医療の難しさはいろいろとあると思います。

老老介護や核家族化が進みキーパーソンが遠方にしかいないなど。

それと同時に医療費の圧迫にともない、どこまで高齢者に医療財源をつぎこむべきか、という議論。

 

 

 

今回のケースも前医での判断は普通のものだったと私は考えます。

医療ミスでもなければ特別変なこともしていません。

私が祖母に対して行ったことも、たまたますべてが順調に進んだので良かったですが、結局はご飯が食べれずにそのまま亡くなっていた可能性も十分ありますし、過剰医療になっていた可能性も否定できません。

 

 

 

ただ、栄養状態が改善したことで、「普通だったらしょうがない」とあきらめられていた状況が変わることもあるのだということを紹介したくて前回、今回と栄養管理にまつわる話を記事にしてみました。

 

*ちなみに祖母は腎臓がんを患っていましたが、CTのフォローでサイズの変化がないとのことで、無治療で経過をみていました(最後の4-5年はCTも撮っていません)。

認知症のある高齢者のがん治療もいろいろ悩ましい問題だと思います。