続きです。

(6)山口 義政の死因および死亡および死亡の時期

山口 義政の死因について、和田教授は次のとおり述べている。
「おぼれたために肺のなかはすっかり水びたしになってしまっている。一つ一つの細胞から水を抜かないかぎり、呼吸によって酸素を供給することはできないのだから、これは現在の医学では不可能である」

しかし、溺水というのは一種の窒息でもある。
この時は声門が痙攣状態になるので、水は気管や肺の中には入りこむことは少ないのであるから、和田教授のいうように肺が水びたしになるということはないといわなければならない。
U医師やL助手も肺に水が入っている模様ははなかったと述べている。

教授によると、山口は午後一〇時一〇分に脳死状態になったから、人工心肺をスタートさせたと言っているが、検察官の認定は午後九時二十分となっている。

山口の両親は、八月八日午前二時五分にL医師と看護婦から臨終といわれた。
これに関する和田教授の説明は次の通りである。
「午前二時五分"ナイフ"と声をかけて執刀を開始する。力夕タッカタッと人工心肺のポンプが静かな鼓動を刻んでいる。まず提供者の心臓を摘出して、それを摂氏五度の生理的食塩水につける……摘出におよそ一五分」
「ナイフをとったのが午前二時五分だから医学的に山口君の死が確認されてから、実に四時間後のことだった。山口君の生命というものは、とっくにこの世を去っていた」

ところが、検察官の認定によると次のとおりである。

午後一〇・三五  洞性頻脈(一分間一三七)が見られる
午前  二・〇八  山口君の心臓に自能力あり
     二・二七  人工心肺停止
     二・二九  山口君不整脈あり
     二・三〇  山口君の心臓摘出

新聞報道による不起訴裁定書原案に引用されているI助手の供述は次のとおりである。
「山口君の胸骨正中線を切開すると心臓は貧血性の色をし、細動状態にあった。山口君が、高圧酸素室にはいった直後、肺のガス交換不能となり、数時間人為的に呼吸機能と循環機能を維持していたため体内に多量の代謝老廃物が蓄積された。当時、人工心肺の操作限度を越えており、細動状態になっていることから、非可逆的心停止と判断、心臓を摘出した」

さて、この心室細動がおこれば、死と断定してよいのであろうか。
この細動が非可逆的のものなら死は到来するだろう。
しかし、死が必ず到来すると、死亡したのとは異なる。

和田教授は、山口の脳死につき、脳波計により、脳波がフラット(flat)になったから脳死と判定したと言っているが、手術室には脳波計はなく、脳波測定は行なわれなかったものと考えられる。
現に、和田教授は脳波のことにつき報道陣の質問にあい困却した。
あの後、麻酔科の高橋 長雄教授の部屋ヘ立寄った際、「あの移植手術のときに脳波をとっていないか、いろいろ聞かれて困っている」と洩らしていたのである。

以上の諸点を総合すると、委員会としては、山口 義政の死因および死亡の時期については、和田教授の説明と異なり、八月八日午前二時三〇分、心臓摘出により死亡したものではないかとの疑いを禁じえないのである。
そして、もし上記細動が非可逆的のものであるとすれば、それは、和田外科の治療行為の結果であると考えざるをえない。


本件心臓移植の医学的評価

一.組織適合テストは行なったか

心臓移植手術は同種移植であるから、必ず拒絶反応が起る。
これを最少限に止どめ、移植を成功に導くには、Donor とrecipient との組織が近似していることが望ましい。
これは、Donor とrecipient が遺伝的にも血縁的にも近い程よいということである。
学者は、これを組織適合性因子が近い程よいと言っている。
これを検査するのが組織適合性テストである。

組織適合性テストには、血液型によるものでも、赤血球(凝集反応)、白血球(凝集反応その他)、リンパ球(殺細胞試験)、血小板(凝集反応)といろいろあり、その他各種のテストがある。

この組織適合性テストは免疫学に属するものであるから、胸部外科医が直ちに出来るとは思われない。
それで前述したアメリカのNational Academy of Science のBoard of Medicineのいうように、心臓移植をする医師団は常に免疫学者の協力が得られるような態勢になっていなければならないのである。

和田外科では、そのような態勢になかったのはもちろん、ABO型血液型以外には、何らの組織適合性テストもしていない。
宮崎 信夫はAB型で、山口 義政はO型で万能供給型であった。
しかも和田教授は「現在のところ血液型以外に信頼のおける心臓組織の適合性の実用的判定法はない。腎臓の場合、よい組織型の組み合わせで、四、五年の遠隔成績は良好であるが、腎臓拒否反応に関与する抗原は、心臓への拒否反応を起こさせるものとは違うと考えられる。そして組織の組み合わせを考えずに心臓移植を行なってもよい組み合わせになる確率は三〇パーセントあり、少なくとも六ケ月の生存可能性が考えられる」と述べている。

南アのバーナード教授が、世界最初の心臓移植をワシカンスキーにしたときに、免疫学者ボウタ博士の協力を求めたことと、和田教授のそれとは余りにも違いすぎる。

二.循環動態は改善されたか

宮崎 信夫の術前の病状は、右心力テーテル検査の結果、著明な肺動脈圧上昇がみとめられたので肺高血症が当然予想されたのである。

肺高血圧症の場合、心臓移植手術を禁忌とするかどうかは、議論のあるところであろう。
肺高血圧症が可逆性のとぎは禁忌とするとの論もある。
何れにしても重要問題である。
これは心臓移植によって、患者の循環動態が果して改善されるかという問題として論議されるのである。

心臓移植を受けるような患者の循環動態は、その心臓移植の適応となる心臓疾患と密接な関係をもち、しかも一般に長期にわたるため、患者の血管系にも非可逆的な器質的障害がおこっていることが少なくない。
それは動脈硬化症その他の動脈壁の障害や末梢の毛細血管床の病変の発生進展ひいては体循環の高血圧、高コレステロール血症などである。
これらのうちには、原心臓疾患の原因としては関係しているものもある。
これらのどれ一つを見ても、解決が容易でないものばかりである。
このような状態のところに、いままで比較的健康であった心臓を移植するのであるが、この心臓を取換えただけで、他の悪条件が改善されるかどうか甚だ疑問である。

この場合、移植心が患者の血行動態の改善に寄与しないで、逆にこの悪条件に順応させられ、原疾患と同様もしくは更に重症な心障害を起こすこともあり得るわけである。

本件においては、患者宮崎に肺高血症があったために、移植心が肺高血圧症という病態を克服できず、逆に移植心がこの肺高血圧症に順応させられ新しく、一種の肺性心の状態におちいることを余儀なくされたのではないかとみられる。


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