今回はかなり痛いニュースに関する話です。
去る6月13日に神奈川県大和市で開催された「若者と国家ー自分で考える集団自衛権」(憲法九条やまとの会主催)というイベントに出演したアイドルグループ「制服向上委員会」が歌とトークを披露した際、歌詞の一部で「自民党を倒しましょう」「諸悪の根源、自民党」「大きな態度の安倍総理おじいさんと同じ、エリート意識・利権好きお父さんと同じ」などと歌ったため、市と市教委が同イベントに出していた後援を事後的に取り消すことを検討しているということです。
会場に直接出向いてイベントを観た市の船越栄一国際・男女共同参画課長が「特定政党を批判する言動」を問題視したもので、「近く主催者に後援名義の取り消しを伝える」としており、市教委も市と足並みをそろえる模様です。ちなみに、市による事後の後援取り消しは異例だそうです。
しかし、最近のアイドルさんはなかなか根性が座っておりますね。アメリカですと、こういう体制批判をするのは気骨のあるラッパーやスタンダップ・コメディアンと相場が決まっていますが、我が国では10代の可憐な少女たちがその役割を担っているわけです。もちろん彼女たち自身が歌詞を書いたわけではないでしょうが、メンバーとして、グループの政治姿勢はちゃんと理解し、共感しているはずですからね。「お父さんお母さんありがとう」とか「お前に出会うために生まれてきた」とか、似たり寄ったりのヘタレな歌詞ばかり歌っている日本のヒップホップ・ミュージシャンたちも、少しはこの反骨精神を見習ってほしいものです。
それはともかく、情けないのは後援中止を検討しているという市の小役人たちですね。強権的な動きを見せる政権与党を批判することが「特定政党の批判」に当たるかどうか、またその批判の表現が妥当かつ穏当なものかどうかという問題はこの際置いておくとしても、近頃では与党の顔色をうかがって、公共の場から政権批判ととられかねない言論を自主的に排除していこうとする公務員たちが目立ってきているように思えます。
昨年の話ですが、文筆家の内田樹さんが参加した神戸市の兵庫県憲法会議主催のイベントが、市と市教委から「自治体としての政治的中立性を損なうおそれがある」ことを理由に後援を拒否されたことがありました。これは神戸市とその市教委が当時さかんに憲法改変を主張していた政府与党に配慮し、護憲的立場の集会を牽制したものと推測されます。
「自治体としての政治的中立性」などということを言い出したら、極論すれば自治体は市民の政治的発言にいっさい関わるべきではないということになりかねませんが、それでは自治体の政治的存在意義そのものが問われることになりますよね。まあ、こういう人たちの使う紋切り型の言葉を額面通りに受け取る必要はないのですが。
むしろ、公務員には憲法の遵守義務というものがあるわけですから、憲法で保証されている「言論の自由」は、それがいかなる政治的立場であれ、積極的に守っていかねばならないはずです。ですから、与党の思惑に配慮して、その主張に反対する立場の意見を拒否したと見られかねない神戸市とその市教委の担当者たちは、内田さんの言うとおり、憲法の遵守義務を公然とないがしろにすることによって違反行為を働いたことになりますね。
世の中には確かにへつらい根性が身についた大人たちが少なからずいるもので、そういう人々に接するたびに、何が嬉しくてそこまで卑屈な人生を送らなければならないのかと不思議に思ってしまうほどです。損得づくで強い者に付くというのならまだ話は分かりますが、そういう人たちは私利私欲を離れてただひたすらお上や上司にひれ伏すのを習いとしているわけですから、まったく理解を絶しています。
アイドルさんの歌にまでビビって、自民党のご機嫌取りに奔る小役人さん、別にそうしたからといって、安倍総理や菅官房長官や自民党幹部たちから「うん、君はよくやっとるようだね。ま、とりあえず一杯」などと、高級料亭で一献傾けながらお褒めにあずかるわけでもないでしょうにね~。
まあ、この小役人さんも、自分が正しいと思ったことをやっているつもりでしょうから、自らを恥じる必要があるなどとは夢にも思っていないでしょう。それならそれで、後々まで「かつてワシは、アイドルごときの分際で時の政権与党様にたてつく生意気な連中を思いっきり懲らしめてやったもんじゃ!」と、自分の親族子孫に誇らしげに自慢していかれるとよろしいでしょう。きっとご家族やご子孫たちから、「やっぱりお爺ちゃんはスゴイ!」と尊敬の念を集めることでしょうなあ。彼らもその小役人さんと同じように、ちゃんと自ら物事の理非を考え、判断する習慣を持たないような人間たちならば、ですが。
頼まれもしないのに権力者の意図を忖度し、そのお先棒を担いでせわしなく走り回り、抗う者やまつろわぬ者を見つけ、彼らが弱い立場にあると見るや公然と圧力をかけてくる、このような三下根性の人々というのは、悪人と呼ぶほどの強烈な個性や信念があるわけでもなく、ただただ耐え難いほど凡庸だと言うほかないでしょう。
凡庸さは、知能や学歴や経歴に関係なく、ある人々に抜き難く染み付いている特性です。
哲学者のハンナ・アーレントは、ナチスでホロコーストの現場指揮を担当していたアドルフ・アイヒマンの裁判を取材し、彼のあまりの凡庸さに強い印象を受け、「凡庸さの悪」をテーマとした「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」という作品を著しました。
凡庸であるということは、必ずしも悪いことではありません。というか、良いとか悪いとかとは関係なしに、ただ端的にそうであるということにすぎません。ですから、高い地位や重要な役職に就いている人間が凡庸だからといって、必ずしもシステムが上手くいかないというわけでもありません。むしろ、多くの場合、彼らが凡庸であるがゆえに世の中が平穏かつ正常に回っている面もあるわけです。
しかしひとたび歴史が危機をはらんだ動乱期に入るとき、彼ら凡庸な人間が浅はかにも自分の大なり小なりの権力を行使しようとすればするほど、状況は悲劇的な方向に堕ち込んでいきます。ナチスの凡庸な小役人アイヒマンが、何も考えずにただひたすら官僚的職務を「粛々と」遂行した結果、数百万のユダヤ人が命を落とすことになったように。
そして、まさに今の我が国がその種の危機的状況に直面しているという認識には、おそらく多くの人々の賛同が得られると思うのですが。
