本ブログではスピリチュアル的内容を時折織り交ぜますと宣告しながら、なかなかそれが成し遂げられず大変申し訳なく思っているので、今回は久しぶりに意を決してそれについて書こうと思いますが、今回のテーマは誰も知っている”天国と地獄”です(^0^;)

 

”天国と地獄”と聞いて僕が真っ先思い浮かぶのは、我々があの世へ行く際、この世での行いが清くまっとうであれば天国へ向かい、逆に不誠実で邪悪に満ちていれば地獄へ向かうというキリスト教的死生観です。

 

このキリスト教的死生観は、デミー・ムーア主演の名画”ゴースト”を観ればすぐに理解出来るのでお勧めですが、実は僕の親はキリスト教信者ではないのに僕が幼少期の一時期、毎週日曜日に行われる教会ミサへ参加させたので、”三つ子の魂百まで”ではありませんがその経験を通してこの死生観を習得しました。

 

そのお陰で幼少期の僕が暮らした北海道のある片田舎であるとき、僕がその頃一緒に遊んでいた”悪ガキ”数人がスーパー・マーケットで万引きを企み、僕にも参加するよう誘いましたが、この世で悪いことをすれば地獄へ落ちると何ら疑いなく信じていた為、その万引き参加をキッパリ断れたので、母が僕に道徳心の習得目的でキリスト教会ミサに参加させたことに今更ながら感謝しています(^_^)

 

話を”天国と地獄”へ戻しこの語源由来をネット検索すると、”1858年にフランス・パリで初公演されたギリシャ神話の悲話をオペラ楽曲の題名”とか、”それまで極めて良かった状況が一転して最悪に陥ることや、評価が下がり落ちぶれること”とあり、不思議なことに僕が触れたような死生観的意味は全くヒットしませんでした(O_O)

 

その理由はこの言葉が宗教的であること、宗教感は個々人で異なるので、その深掘りはプライバシー侵害にも繋がりかねずタブー視されるので、ネット検索エンジンにあまり引っかからないなかな?とも思いますが、だからこそ本テーマにちょっとだけ触れる価値があるかも。。”はっ”と気づきました。

 

なのでこの話もう少し続けると、”天国と地獄”は冒頭で述べたようなこの世を去ってからの話でなく、実はこの世にも”天国と地獄”は存在するはずと僕は信じており、この世を去って天国へ行きたければ現在、つまりこの世でも天国?にいないとそれは不可能なはずです。。

 

逆に言うと、現世でまるで”地獄”にいるかのような生き方をした人の命が尽きた時、天国に行ける可能性はゼロと誰しもが直感的に感じるでしょうし、つまり天国か地獄行きかの審判は現在の一挙手一投足で下されると思ったほうが良さそうです(O_O)

 

ではこの世での”天国と地獄”とは具体的に何か考察すると、天国はキラキラ明るく輝き希望が湧き出るイメージ、地獄は逆に暗くジメジメ陰湿なイメージですが、それはきっと天国・地獄の波動(エネルギー)から来るイメージで、おおよそそれで間違いないはずです。

 

つまり現世で心が躍る充実感・達成感・喜びに包まれているとすればすでに天国にいる証拠、逆に妬み・恨みに終始、つまり人を常に憎んだり、逆に他人に迷惑をかけ恨まれる生き方、自己中心的で自らの欲望最優先にするような生き方をしていると、この世で地獄へ片足を突っ込んでいるか、将来地獄行きの切符を受け取ったのに等しいでしょう(゚◇゚)ガーン

 

こんな話をしてるうちに”あっ”という間に紙面が尽きてしまったのでこの辺りで止めますが、次回はこの世の”天国と地獄”について、現世ですでに天国にいる人と獄行き切符を予約している?人たちの具体例、その割合などさらに掘り下げみたいと思います