私と夫は元々同じ中学校の同級生だった。3年生の時に同じクラスになり、仲良くなった。よく二人で学校に居残って勉強した。夫の親が定食屋をやっていたため、そこで二人で夕飯を食べ帰る毎日が続いた。だが、勉強が忙しくお互いがお互いを思い合ってはいたが、ついに気持ちを告げぬまま、それぞれ別の高校に進学した。それからは全く繋がりがなかった。夫がどうだったかは分からないが、私は正直夫のことを忘れようとしていた。そして大学生になり、一人暮らしを始めたある日、私の母親の足が悪くなり介護が必要になった。母の足はもともと良くはなかったのだが、杖を使わないで歩行はできていた。しかし、医師からこれからは杖と介護が必要だと申告された。父親は認知症が進み、とてもではないが頼りにできなかった。母は大学を辞めないでほしいと言ったが、私は母を見捨てることができず、大学を諦め、実家に戻り、家から近い広告代理店に就職した。夫のことを思い出したのはそんな最中だった。故郷の街にいるといつしか夫のことばかりを思い出すようになってしまっていた。
そんなある日、仕事が遅くなってしまい、母に電話をすると金曜日なんだし、たまにはどこかで食べてきなさい、私は昨日の夕飯の残りがあるから大丈夫と言われ、電話を切られた。
その時私は夫との思い出の定食屋を思い出した。もしかしたら夫に会えるかもしれないと淡い期待を抱きながら電車を降りて中学の前を通り、定食屋を目指した。私の好きだったたい焼き屋がなくなっていた。もしかしたら定食屋ももう潰れてしまっているかもしれないと心配になった。
だが、そこには昔とほとんど変わらず定食屋が残っていた。私はなんだが本当の実家に帰ってきた時より実家に帰ってきた気分になった。
店に入ると昔よりシワの増えたおじちゃんとおばちゃんが出迎えてくれた。おじちゃんとおばちゃんはどうやら私に気付いていないようだった。私は気付いてもらおうとするのもなんだか恥ずかしいので、特に何も言わずに大好きだった唐揚げ定食を注文した。
「リョウちゃん?」
私は仕事で疲れて呆然としていたため最初その声に気付かなかった。
「リョウちゃん!」
「はい!」その声のボリュームに私も思わず、大きな声で返事をしてしまった。
私が声をかけられた方を向くとそこには夫がいた。私は最初それが夫であると分からなかった。当時より髪が短くなっていたからだ。でも顔を観察しているとだんだん夫のことを思い出していった。
「もしかしてカッちゃん?」私はようやく口を開いた。
「うん、久しぶり」
「久しぶり」
「変わりない?」
「そうだな、兄ちゃんが戦死したくらいかな」このようにとことん暗い話をまるでどうでもいいことのように明るく話せる所は夫の長所というべきか、短所というべきか。とにかく髪型は変わったが、心はあの頃のままのようだと私は安堵した。
「そうか、しんどくない?」
「もう慣れたよ」
「そっか」
「母ちゃん、俺にも唐揚げ定食とビール」
「あいよ」
定食が届くと二人は会えずにいた時間を埋めるように話をした。
どうやら夫は大学に行かず、就職したが、仕事が合わず、退職し、一時的に実家に帰ってきているとのことだった。
それから私は毎週金曜日は母への食事を事前に用意して定食屋に通った。
やがて二人は付き合い始めた。先に告白したのはどちらだったか思い出せない。ただ毎日が怖いほど楽しかったことは覚えている。そして夫はしっかり就職し、私にこんなプロポーズをした。
ある金曜日、私がいつものように定食屋を訪れるとそこには無骨な瓶を持った夫の姿があった。
「どうしたのそれ?」
「これ、オールドパー12年っていうウイスキー」
「へぇ、カッちゃんビール以外にも飲むんだ」
「いや、飲まない」
「え?飲まないのに買ったの?」
「実はこのオールドパーは偉人の名前から取ったもので、すごい長寿だったらしいんだ」
「ほうほう」
「それで」一呼吸おいて夫は続けた。
「100歳になるまでそばにいてくれないか?」
私は唐突な夫の言葉にしばらく沈黙した。
「これってもしかしてプロポーズ?」
「一応そのつもり」
私はそのユニーク過ぎるプロポーズに笑いをこられられなかった。
「おい。俺の渾身のプロポーズを笑うな」
「ごめんごめん。でも普通は指輪とかじゃない?」
「どうしても金がなかった。このウイスキーが指輪の代わりだ」
「分かった。ありがとう。嬉しい」私も一呼吸おいて続けた。
「喜んで」
私はまるで昨日のことのようにあの70年以上前のことを思い出すことがある。
やがて生まれた私たちの一人娘、ヒナは健康にすくすくと育った。大きな挫折もなく、大学まで進学し、無事就職した。そしてやがて一人暮らしを始めた。しばらく会わない日々が続いたが、ある年の正月に男を連れて帰ってきた。3年ほど付き合っているトラック運転手だという。ヒナはこの人と結婚したいと言った。態度が律儀で、私も夫も好感を持てる人だった。私と夫はこの二人なら大丈夫だろうと安心してヒナを送り出した。そして結婚してから3年後、二人の愛で生まれた孫はとにかく可愛かった。女の子で名前はミライだった。
そして現在。明日100歳になる夫は癌を患っていた。夫の癌はこれが初めてではなかった。82歳の時に初めて肺癌が見たかったが、厳しい闘病の末、なんとか完治した。夫はそれからたびたびもう癌はごめんだと、独り言を言うようになった。だが安心したのも束の間、去年、夫が98歳の時に癌が再発したのだ。
私はまだ夫よりは元気だったが、年々体力が低下していくのを感じていた。
次の日誕生日祝いに花束を持って病室に行くと夫は呆然と窓の外の景色を眺めていた。
「あなた誕生日おめでとう。あのね、土曜日ヒナがミライを連れてお見舞いに来てくれるって」
「リョウちゃん」まるで学生の頃に戻ったように夫はそう言った。
「ウイスキー持ってきたか?」
「ウイスキー?」
「プロポーズした時のあったろ」
「あぁ、あのオールドパーっていうやつね。あなた癌が治ったらゆっくり二人で飲みましょ」
「いやだ」
「先生からもアルコールは控えてって言われてるでしょう」
「持ってこい」
「嫌です」
「持ってこい」
「死んでしまいますよ」
「もう生きるのは飽きた。俺はもう死にたい」
「そんな悲しいこと言わないで」
「いいから持ってこい!」そう言って夫はせっかく用意した花束を投げ捨てた。
「もういいわ」私はそう言い残して病室を後にした。
私は帰宅した。それから少し悩んで一応ウイスキーを探した。私はそのウイスキーを大切に保管していた。
それは棚の奥にあった。埃をかぶっていたがそれは確かに夫がくれたウイスキーだった。
私はそのウイスキーを少し飲んでみることにした。飲み方など知らないのでとりあえずコップに少量注いで氷を入れるとなんとなくそれっぽくなった。私はそれを口に含んだ。正直不味かった。それがウイスキーそのものの味なのか、時間による劣化によるものなのか私には分からなかった。私はまだ残っているそのウイスキーをまた棚の奥にしまった。
私はそれから家で過ごした。今日はもう笑顔で夫と話ができる自信がなかった。私は夕食を済ませるとウイスキーを飲んだせいか、睡魔に襲われ、そのままぐっすりと寝てしまった。
その夜、私は不思議な夢を見た。夫と二人であのウイスキーを飲む夢だった。
「100歳おめでとう」私が言う。
「ありがとう」そこには老けているが、底抜けに明るく笑う元気な夫がいた。私はその姿を見てただただ涙した。時間ってなんて残酷なのだろうと思った。
電話の音で目が覚めた。病院からだった。
「もしもし」
「もしもし、もしもし。あの克人さんの容体が急変して、とにかく早く病院に来てください」
「はい、分かりました。すぐ向かいます」
私は電話を切ると急いで準備をして部屋を出た。
棚の奥には空になったオールドパーが黒く輝いていた。