こんばんは

 

しらこまです
 

前記事の続き。

 

 

もう15時くらいだけどまだまだ網走観光
次に行ったのは、なんか古代の遺跡とかないかなと調べてたら見つけた
最寄(モヨロ)貝塚

モヨロ貝塚館という施設もあって見学した

1913年と結構前に発見されていて、1965年にはモヨロ貝塚館が開館、今の貝塚館は2013年にリニューアルされたもの

貝塚って言われてる通り、やっぱり貝殻の層があったみたい

発見した米村喜男衛さんの経歴を書いてあった


この人が存命中にモヨロ貝塚館はオープンしてたみたい
網走に来て翌朝に見つけてたそうだから、やっぱわかるような状態にはなってて
それを史跡だといえる人がこの時期に来た、って感じなのかね
とはいえ21歳で発表するのもすごいけど

ところで、貝塚と言っても本州とかのように縄文時代とかのものではなく、
オホーツク文化の時代のものらしい

オホーツク文化の頃はクマは神聖なものとして扱われてたらしい

今ほど人里に来るということはなかったのかな

モヨロ貝塚は今も当時もオホーツク海のすぐそばの場所だったみたい

ちょっとした丘になってた感じだったのかな

オホーツク文化の時代は、本州のほうでは古墳から平安時代初頭まで

サハリンから標津のオホーツク海側で多くあった文化

前回の道北方面の旅でも、稚内の開基百年記念塔や枝幸のオホーツクミュージアムでも出てきてた

ちょっと振り返ってみたけど、津軽海峡が深すぎて渡れなかったから稲作がここまで届かなくって、
狩猟採集の時代が続いていた、という頃

このモヨロ地域では集団生活となっていたみたいで、1家族で1個の家ではなく、
複数世帯がまとまって同じ家に住んでたらしい

家が六角形の形っていうのが珍しい気がする

家の一番奥にはクマの頭蓋骨をいっぱい並べた骨塚っていうのがあったらしいんだけど、
これって信仰なのかな…?

クマを狩猟してたかはわかんないけど、逆に狩猟の成果的な感じに個人的には見えてしまった

後は毛皮とかはいろいろ

海に近いとはいえ北の大地は特に冬は極寒だろうからね…
この地域の人々は本州の人よりはサハリンの人たちと交易をしてたそう

オホーツク海側だと津軽方面に行くのに陸を通るにしても大変だし、
海でも迂回距離が長いからサハリン方面のほうが楽だったのかね
とはいえ、全く交易してなかったわけではないけど

墓は住居を囲むようにどんどん広がっていってたそう

北のほうの墓地が古めで南のほうが新しめだったそう

この地域では屈葬で埋葬されたみたい

あと壺を頭にかぶせてたみたい

そのあたりは本州とかとそんなに変わらない埋葬方法かな?
縄文・弥生時代あたりとだけど…

骨の形からここに住んでいた人たちの特徴がわかってきてるみたい


地域の特徴も、こういう生活をしていたんだろうなっていうこともわかって遺物は大事だね


で、貝塚

貝塚にもその当時どういうものを食べていたのかっていうのがいろいろわかる

魚や貝だけではなくてアザラシとかの海獣も獲ってたんだね
後は非常食的な形で犬も食べてたっぽい

あとクジラも…

打ち上げられてしまったものを食べたって感じなのかな
さすがに狩りには行けないよね

オホーツク文化の後は擦文文化と交じり合ってトビニタイ文化という文化に発展していったそう

ただ、モヨロの地域はオホーツク文化までになってて、ほかの場所に移動していったと考えられてるみたい

あとはフィールドワーク

復元竪穴住居と墓域があった

室内展示の話だと10mくらいはあるそうだけど、見た目上そんなには見えなかった気がする
実際はもっと大きいのか、それとももう少し深めになってるのか…

墓域はこんな感じ

まあ、それくらいな感じだよね
埋葬当初は少し盛り上げたけど、年がたつにつれどんどん自然に溶け込んでいった、って感じになるんだろうね

ちなみにオホーツク文化の1個前、続縄文文化のエリアもあった

とはいえよくわからなかったけど…


これでモヨロ貝塚に関してはおしまい。

 

次の記事に続く。