『イデア』とは語源的にはギリシャ語の「見る、知る」という意味の動詞である。さらにギリシャ語の日常的用法では「見えているもの、姿、形」の意味になる。

見たもののそのままの美しさ、その存在などの原型を捉えることや感覚的、イメージ的な捉え方ではなく、ただただ美しくさせているそのもの、その美しさの本質となるのである。「それはどういうことなのか、どういう物なのか」について捉えられる「概念」とは違い、イデアの場合は、見たままを視覚的でも感覚的でもなく、ありのままの様を美しいと思える心の目や魂の目で見える美のことなのである。

『詩学』とは、(詩)の本質、形式、内容、種類、創作技法などについての理論的考察の意味である。19世紀では模倣説、技術論としての伝統的詩学に対する反省が行われ、形式、技法にではなく、人間本性の創造的な力、想像力、作品の歴史性、民族性に求められることが変わったのである。「終焉を迎えそのその自然本性を獲得した」とアリストテレスはみなすことにより『詩学』において、悲劇の本質を論じることができると考えたのである。いわゆる、歴史は起こったこと(過去)しか語ることはできないが、詩は可能なこと(起こるかもしれないこと)つまり「真実らしさ」を語ることができるのである。

『人体の比例』とは、簡単にいえば「美術作品における人体の理想的基準を定める人体各部の比例率」である。15009頃、レオナルド・ダ・ビンチが人体を考察して描いた「ウイトルウイウス的人体図」が有名である。頭身法の理想的比例率を最初に規定したのはギリシアの彫刻家ポリュクレイトスである。人体の理想的な比率は頭部が全身長の7分の1を占める。と説いた彼の説を、1世紀後に彫刻家リュシッポスはこの比例を修正し、最も美しい人体の比例を8頭身であることを明らかにしたのである。『自然美』とは、自然の所与に認められた美。さらに美的なるものは「自然美」と「芸術美」という形で、二つに区別されるのである。人間の手による創造意志によって芸術作品の形に表現された芸術美に対して、自然界にみられる美を広く自然美と呼ぶのである。動植物の個別的形象、風景、天空にみなぎる全体的雰囲気、人体美も自然美とされることが多いのである。

『感性的認識論』は感覚能力だけでなく、創作する能力や記号的能力なども含めた下位識能力によって得られる、明瞭で渾然とした認識である。感覚や知覚を通して得られる認識を意味するのである。いわゆる人間の想像力を活かすことから得られる創造性は無限の能力を持っているということである。

『趣味判断』まず、趣味の基準である。ヒュームは「あらゆる種類の美と醜に関して人々の感情はしばしば異なっている」という事実「趣味の多様性」の指摘した上にその基準を「趣味の基準を求めることは自然本来的なことである。人々の感情を調停しうるような規則、あるいは少なくとも、ある感情を是認し別の感情を非難する決定を与えることのできる規則のこと」と設定しているのである。趣味判断は、人々が物事の美醜を判断するときに、その判断は個人の感性で行われる(個人の趣味)ということなのである。

『崇高』美的範疇のことをいう。壮大なものや、雄大なものに大した時に対象に抱く感情や、心的イメージのことを美学上の概念である。圧倒的に大いなるもの、圧倒的な力などに向き合うときなどに、精神の抵抗力的な力が必要とされるような場面の感情である。

『もののあわれ』とは、美的理念のひとつである。外界の事物にふれて、なんとなくおこるしみじみとした情趣や感動、無常感的な哀愁をいうのである。平安時代の文学をとらえる上での文学理念であり、美的理念である。自然や人生、芸術などに誘発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁のことを表した言葉である。