明帝 (南朝宋) | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

 南朝宋の第3代皇帝・文帝が囲碁好きであったことは紹介したが、第6代皇帝・明帝(劉彧)もまた囲碁好きとして知られている。
 ただ、周囲は第三品の碁だとおだてていたが、実力は下手で段位には七、八目も劣っていたという。
 第一品の名人王抗も、三品の手合割りで賭碁をした際に緩い手ばかり打って、「皇帝が桂馬飛びを打つので、臣は石を切ることができなかった」とおだてたといい、帝はお世辞を言われていることも分からず、ますます囲碁にのめりこんでいったと伝えられている。こうした事はいつの世にもあることで、日本でも江戸時代には殿様碁といわれる、実力以上の段位を名乗った大名もいた。
 また、明帝には沈憲という碁敵がいたようだが、「卿は州の長官の才がある」と言って重用したりもしている。 

 明帝は文帝の十一男で、元嘉30年(453)に父を暗殺し即位した長兄の劉劭を廃し、代わって即位した三男の孝武帝(劉駿)を補佐していく。
 孝武帝の死後、即位した甥の前廃帝(劉子業)は粗暴な行いが多く、廃位を画策する臣下を多く殺害し人望を失っていったため、明帝は景和元年(465)に前廃帝を殺害し自ら即位。明帝の即位には異を唱えるものも多く、各地で反乱が勃発し、これらと連携し侵攻してきた北魏に領土の一部を奪われるなど対応に苦慮していったという。
 明帝は肥満した体格であったため、前廃帝には「猪王」と呼ばれていた。穏やかな性格だったと言われ、討伐軍の指揮官の身内に反乱に荷担しているものがいても不問に付してそのまま登用し、鎮圧後も反乱に荷担した者たちの大半を赦すなど寛大な対応を見せていたが、一方で弟や甥など、将来自分の地位を脅かす皇族を次々に処刑していくなど残忍な一面もあったという。
 明帝の妻の兄・王景文も、将来、幼い息子から権力を奪うのではないかと疑われ、 明帝に自殺を強要されている。王景文はその勅に接したとき囲碁の対局中で、平然と対局を続け、対局を終えてから「勅令を拝読すると死を賜ると書いてあります」と勅令を対局相手に見せ、毒酒をあおって自殺したという。

 明帝は「囲棋州邑」という囲碁の担当官庁を設け、上手たちを役に就けて囲碁界をまとめる仕事をさせている。第一品の王抗もこの役に就いている。これは一種のプロ棋士養成機関のようなもので、唐時代の「棋待詔」など、囲碁が盛んな時代には同等の組織が設置されている。