樹斎 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

 本因坊算砂の一世代前の碁打ちには、仙也、宗心のほかに樹斎という人物もいる。
 宗心の時にも紹介したが、吉田神社神主、吉田兼見が記した『兼見卿記』によると、天正6年(1578)10月10日と11日に細川幽斎の居城、勝竜寺城において宗心と樹斎の対局が行われたという記述がある。
 10日の対局は食後に宗心徳番(互先の先番)で始められ、宗心が15目勝った。
 家康の孫である姫路藩主松平忠明が寛永年間に編纂したとされる『当代記』の中で、慶長12年(1607)12月22日の記事に「樹斎五十余」とあることから、勝竜寺城で対局した頃に樹斎は二十余歳、宗心については当時四十余歳と言われ、「尊者先着」で年長の宗心が徳番(先番)となったと考えられる。
 勝竜寺城の対局の一年前、天正5年(1577)11月7日に勝竜寺城主長岡藤孝(細川幽斎)が吉田兼和邸を訪れたという記録があり、同行者の中に「樹斎」の名が記されている。折悪しく兼和は眼病で臥せていて、藤孝は翌日未明に帰城したが、長次・樹斎・七太夫の三人は後刻に帰ったと『兼見卿記』にある。樹斎は藤孝(幽斎)の息が掛かる碁打であったといえる。藤孝は後々に多くの碁会を催すなど、碁打ちにとっては大きなスポンサーだったのであろう。
 さらに『兼見卿記』の天正10年4月12日、13日に吉田兼和邸で碁打樹斎と壽見が三番対局し三番とも壽見が負けたという記録もある。