二十三世本因坊栄寿(坂田栄男) | 囲碁史人名録

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 切れ味の鋭いシノギを特徴として「シノギの坂田」「カミソリ坂田」の異名を持ち、昭和最強棋士の一人と言われる囲碁棋士の坂田栄男は、二十三世本因坊栄寿の号も有している。
 囲碁のタイトル戦で最も長い歴史を持つ「本因坊戦」は、江戸時代に成立した囲碁の家元、本因坊家をルーツとし、歴代当主は血筋ではなく実力重視で、門下の中から最も相応しい人物が継承してきた。
 明治以降、囲碁界は家元と方円社が対立し分裂状態にあったが、関東大震災を機に日本棋院が設立され統一される。当時の二十一世本因坊秀哉は、本因坊の名は最強の人物が継ぐべきだと考え、名跡を日本棋院へ寄贈し本因坊戦が創設される。
 本因坊戦に勝利した棋士は、在位期間のみ号を名乗る事ができ、タイトル戦に敗れると号を名乗ることはできなかったが、5連覇以上、あるいは通算10期以上獲得した棋士は、引退または現役で60歳に達した時、または9連覇を達成すれば直ちに、永世称号として「○○世本因坊」を名乗る権利を得ている。現在、日本囲碁界の第一人者である井山裕太は、すでに9連覇以上を達成していて二十六世本因坊を名乗る権利を獲得している。号は本因坊文裕である。
 

坂田栄男の墓(小平霊園 東村山市)

 

 二十三世本因坊の坂田栄男は、大正9年(1920)東京府荏原郡大森町(東京都大田区)に生まれ、囲碁好きの父親の影響で囲碁を覚え、昭和4年(1929)に増淵辰子八段(当時二段)に入門する。
 昭和10年(1935)初段、昭和15年(1940)には五段へ昇段し、藤沢庫之助、高川格とともに日本棋院若手三羽烏と称される。
 昭和21年(1946)に七段へ昇段するが、日本棋院への不満から翌年、前田陳爾ら8棋士で脱退し囲碁新社を結成。しかし、昭和24年(1949)には復帰している。
 昭和26年(1951)31歳の時に、第6期本因坊戦で挑戦者として橋本本因坊に挑んだ7番勝負は、3勝1敗と相手を角番に追い詰めながら、その後3連敗と大逆転を喫している。
 対局は、橋本本因坊をトップとする関西棋院が日本棋院から離脱したため、本因坊位剥奪も検討されていた経緯もあって、本因坊位奪還に対する坂田への期待は相当のものであった。カド番となった橋本は、対局場に着いた時に「首を洗ってきました」と語ったが、この一局に勝利し一気に流れを変えた。

 

墓石

 

 その後、坂田は昭和30年(1955)に九段へ昇段、昭和34年(1959)には日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり実力者としての地位を固めていく。
 そして、念願の本因坊となったのは昭和36年(1961)の第16期本因坊戦で、9連覇中の高川格(二十二世本因坊秀格)に挑戦し、4勝1敗で勝利、本因坊栄寿と号している。以後、本因坊戦7連覇を果たした坂田は、二十三世の名誉本因坊の資格を得ている。
 昭和38年(1963)10月から昭和39年(1964)7月まで一般棋戦で29連勝を達成するなど圧倒的な強さで、本因坊戦のほか、名人戦2期、王座戦7期、十段戦5期などの多くのタイトルを獲得。昭和53年から昭和61年まで、日本棋院理事長に就任して囲碁界を牽引していった坂田は、平成10年(1998)から二十三世本因坊を名乗り、平成12年(2000)80歳の誕生日をもって引退。平成22年(2010)に亡くなり、令和元年(2019)に第16回囲碁殿堂入りした。

 

墓誌

 

 小平霊園(東村山市)にある墓は昭和60年に本人が建立したもので「坂田」の文字は直筆である。