豊臣秀吉 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

豊臣秀吉

 

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三英傑のうち、史実として囲碁の愛好家として確認できるのは家康のみで、信長と秀吉については伝説が多く、実際に囲碁好きであったのかよく分かっていない。ただ、少なくとも秀吉については武将や公家の記録の中で囲碁との関わりが残されている。

〇【秀吉の生涯】
 豊臣秀吉は尾張国愛知郡中村(名古屋市)の百姓の家で生まれる、幼名は日吉丸。
 7歳のときに父が没し母は再婚するが、秀吉は継父と折り合いが悪く、天文20年(1551)に家を出て、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで織田信長に仕官。
 木下藤吉郎秀吉と名を改め、清洲城普請、墨俣築壘などで戦功を重ねていき、京都警備を任されるなど信長の有力武将の一人として頭角を現していく。
 天正元年(1573)浅井氏の滅亡により旧領を拝領し、羽柴秀吉と名を改め、琵琶湖湖岸に長浜城を築城して年貢・諸役免除など領内経営に尽力していく。
 なお、羽柴姓は信長の重臣・丹羽長秀と柴田勝家から一字とったもので異例の出世を遂げた秀吉が旧臣との対立を避けたいとの思惑があったと言われている。
 その後、天下統一に向けて西国進出を狙う信長の命に従い播磨、但馬、因幡へと転戦いていくが、天正10年(1582)6月2日に、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ、備中高松城で毛利軍と対峙中に知らせを聞いた秀吉は、毛利と和睦し山崎にて明智光秀を討っている。
 信長の後継者を巡り主導権を握った秀吉は、対立する柴田勝家との戦いに勝利し自害に追い込んでいるが、織田信雄・徳川家康連合軍との小牧・長久手の戦いでは実質的に敗北し、家康の影響力が増すこととなる。
 大坂城を拠点に、紀伊、四国を次々と平定した秀吉は、天正13年(1585)に関白に就任し、その後、九州平定に取り掛かると共に、関白にふさわしい邸宅として壮大な聚楽第の建設をはじめる。
 そして、正親町天皇から豊臣の姓を賜り太政大臣に就任して豊臣政権を樹立。天正15年(1587)には九州征討も終え、完成した聚楽第では翌春に後陽成天皇を迎え華々しく饗応が行われている。
 徳川家康ら有力大名を上洛させ誓紙を得て政権基盤を盤石にすると、刀狩令による兵農分離や海賊停止令を発布するなど制度改革を断行。
 天正18年(1590)には最後まで抵抗していた小田原の北条氏を征伐し、次いで奥羽地方へも遠征して悲願の天下統一を果たしている。
 しかし、この頃から行動に異常性が見え始め、天正19年(1591)に最も信頼していた弟の豊臣秀長、そしてようやく生まれた息子の鶴松が相次いで病死すると、その悲しみから逃れるためか、来春より明へ侵攻することを全国に布告。この年、重用してきた茶人・千利休に切腹を命じている。
 秀吉は朝鮮に対し入貢と明への案内役を迫っているが朝鮮が拒否したため文禄元年(1592)に「文禄の役」と呼ばれる朝鮮侵攻が開始される。
 鶴松が亡くなると秀吉は甥の秀次を養子として関白職を譲り、自らは太閤と称しているが、文禄2年(1593)に側室の淀殿との間に秀頼が生まれると、秀次を排除するため文禄4年(1595)に謀反人として高野山へ流罪とし、切腹のうえ妻子も処刑している。
 文禄の役は開戦翌年に休戦し講和交渉が行われてきたが、文禄5年(1596)に決裂し、慶長2年(1597年)より「慶長の役」が開戦される。
 慶長3年(1598)の春、醍醐寺の再建を命じ、境内に各地から700本の桜を集めて植えさせた秀吉は、秀頼や奥方たちと一日だけではあったが盛大な花見を楽しんでいる(醍醐の花見)。
 しかし、その後は病に伏し、自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城の伏見城に諸大名を呼び寄せ、徳川家康に幼い秀頼の後見を頼んでいる。
 そして、8月18日に秀吉はその生涯を終えている。享年62。

 

〇【秀吉と囲碁】
 秀吉の囲碁に関する最も古い記録は『言継卿記』の元亀元年(1570)12月1日「武衛家へ参り徳雲と木下藤吉郎の碁あり」という記録である。木下藤吉郎は後の豊臣秀吉である。

 武衛家は尾張守護・斯波氏のことで、当主の斯波義銀は信長に敵対し1561年に尾張を追放されていたが、後に信長と和解し津川義近と名を改め仕えていた。
 この後、しばらく秀吉の囲碁に関する記述は見られず、次に見られるのは天正16年(1588)、秀吉に御伽衆として仕えた大村由己が著した『天正記』の8月4日の記述に「関白様碁を遊ばさる(中略)、碁の御相手仙也・本因坊・利玄・少林」とある。
 また、慶長2年(1597)には秀吉が大谷刑部吉継の見舞いに訪れ、大谷家では囲碁で秀吉をもてなしたという記述が『鹿苑日録』にある。このとき碁打ち宗具が秀吉の相手をしている。
 大谷吉継は石田三成との友情により、癩病を患いながら関ヶ原の戦いで西軍についた人物として知られている。

 秀吉の囲碁に関する有名な話で、本因坊算砂をはじめ有力な碁打ちを集めて日本初の全国大会というべき碁会を開き、優勝した算砂へ朱印状を与えたと言うはなしがある。
 しかし、朱印状は写ししかなく、囲碁界の書物以外で碁会の記録が見当たらないことから、江戸時代に本因坊家の権威を高めるために創作された可能性が高いと考えられている。

 江戸時代後期、林元美が著した『爛柯堂棋話』にも秀吉の記述がある。同書は囲碁の史話・逸話や随筆からなっており、現在では資料集としてより読み物的要素が強いとされている。しかし少し前までは囲碁史の一級資料とされ、逸話や随筆などの内容も史実のように語られていた。これは明治に出版された『坐隠談叢』も同じで、現在は研究者により史実と虚構の振り分けが行われている。その『爛柯堂棋話』には秀吉について以下の二つの記述がある。

「豊臣太閤、菊亭右府と囲碁の事」
 小早川隆景は、武勇といい才智といい、容儀骨柄まことに傑出したる英雄なり。近年の名将の中、これに勝るはなし。智恵にも太閤も手を置き給う。伏見の御城にて、秀吉公と菊亭右府(今出川)晴季公と碁を遊ばされ、家康公、上杉景勝など御見物なり。一手すきにて、むずかしくなり、秀吉公、御手を案じ給えども好き手を思いつき給わずして仰せられ候は、「この分別は隆景にてもなるまじ」と仰せなり。家康公、「なかなか御意の通り」と御挨拶あり。
 小早川隆景は毛利元就の三男で、毛利家の重臣であり、豊臣政権においても重要な位置にあった人物である。この逸話は『名将言行録』にも収録されている。

「聖目の事ならびに持碁・中押し・太閤先まねび碁の事」
 近来、上州辺の老人の話に、局面の中央へ先を置くことを「太閤先」と云う由。その義は、豊臣太閤秀吉公、囲碁を好み給いけるが、「中央へ先手を置いて敵手の真似をすれば負けることなし。持碁が一目勝ちになる理なり」と宣えり、と云う。
 秀吉の囲碁について有名なのが「太閤碁」と呼ばれるもので、初手天元に打ち、後を全て真似るというものである。そのことが記されている。

 

 秀吉が囲碁を嗜んでいたことは間違いないが、その実力は笊碁程度であったと言われる。しかし、囲碁を色々な駆け引きに使う事もあったようだ。

 文禄の役で伊達政宗が朝鮮半島に渡っていた時期、名護屋城留守居役として秀吉との折衝役を務めていた鬼庭綱元を気に入った秀吉は囲碁の勝負を挑み、自分が勝ったら家臣として召し抱え、負けたら、お気に入りの側室・香の前を与えると言い出した。秀吉に仕える気は無いが太閤の対局の申し出まで断ると無礼になるため綱元は対局に応じ、その結果、勝利して香の前が与えられる。しかし、日本へ帰ってきた政宗は綱元が裏切るのではないかと疑い隠居を迫まる。綱元は香の前を連れて伊達家を出奔したが、他家の仕官は政宗の反対で実現せず、2年後に伊達家へ復帰、この時、香の前は政宗に取り上げられ、数年後に再び綱元に下げ渡されている。

 秀吉にしてみれば囲碁の勝敗はどうでも良く、正宗の優秀な家臣団に揺さぶりをかける目的であったと考えられる。

 この他、武将を味方に引き込むため、高価な花器を賭けて囲碁の勝負をし、花器を与えたという話も残っている。