二世林門入 | 囲碁史人名録

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 二世林門入は、もともと安井算知の門下で、一世林門入(林門入斎)が亡くなって2年後の寛文9年(1669)に、算知が林門入の俸禄を継がせ林門入の名を継承している。
 家元制度が確立していなかった当時、俸禄は個人に支給されていたが、算知により林門入の名が継承されたことと、これに対抗して本因坊道悦が門弟に井上因碩の名を継がせたことで、家元四家体制が確立していく。
 林家では歴代当主が門入の名を継承していくが、これは初代が後継者を決めずに亡くなり、二代目が名前を継ぐことで林家が出来た訳で、家元としての正統性を示すために初代の名が必要とされたのではないだろうか。それは井上家も同様である。
 二世林門入は謎の多い人物で、算知の弟子であり、寛文九年から御城碁を勤め貞享二年まで九局を打ち、翌年に四十六歳で没したという程度しか分かっていない。
 ある研究者によると明暦の大火により安井家が拠点を京都に移していた頃、算知は後水尾法皇の御意により玄悦という人物を弟子にとったと記録されていて、この玄悦こそ二世林門入ではないかという説が提唱されているが確定的な証拠はない。
 根拠の一つとして、二世門入の実子である三世門入は玄悦を名乗り、一般に玄悦門入と呼ばれているため、これは父の名を継いだのではないかという話もある。
 二世門入と安井家とのつながりは強く、家督継承した年に始まった算知と本因坊道悦の争碁で門入は算知の添願人となっている。 
 しかし、晩年病に伏した門入は、安井家ではなく名人碁所の本因坊道策に、当時8歳の実子、長太郎を託し貞享2年3月11日(1685年4月14日)に亡くなっている。
 長太郎は道策の優秀な弟子たちに鍛えられ、三世林玄悦門入となった。