人間の目には認識できないものがある。
 
 
 
 
細菌やウィルスしかり、肉眼では見えないけれど、でも、確かに存在している。
 
 
 
 
 
 
人間の耳には聴こえてこないけれど、確かに存在する「音」がある。
 
 
人間が感知できる音の範囲は、ほんの一部でしかない。
 
 
 
 
 
 
象の嗅覚は人間の5倍。
 
 
 
 
わたしたちには無臭にしか思えないその空気から、どれだけの情報を得られるのだろう。
 
 
 
 
 
 
この肉体を通しては、分からない。
知覚できない。
 
 
 
 
そう思うと、わたしたちはなんて小さな領域で生きているんだろう。
 
 
 
 
広い宇宙の数あるひとつ
青い地球の広い世界で
(MONGOL800か)
 
 
 
わたしたちが一生のうちに感じられるもののなんと少ないこと。
 
 
 
 
わたしたちは何も分かっちゃいない。
 
 
 
本当はそこに「ある」ものを。
 
 
 
見えない、聴こえない、嗅げない、触れない、味もない。
 
 
 
この程度の感受性しか持ち合わせていない人間が、
ただそれを感知できていないだけで
 
 
「存在しない」
「そんなものはない」
 
 
などと言い切れるわけがないのだ。
 
 
 
 
だから、
 
 
 
 
この身体では感知できない、
そんな領域のものに対して
 
 
 
 
想像することしかできない。
 
 
 
 
想像、イメージすることで初めて、
それを具体化できる。
 
 
 
 
つまり想像とは、肉体を超えている。
 
 
 
 
肉体で感知できない事象を、想像でのみ捉えることができる。
 
 
 
想像なんて事実とは違う、
頭の中だけのものじゃないかと思うかもしれない。
でも、そんなことはない。
 
 
 
 
なぜなら、
 
 
 
 
「想像できることは、すべて現実なのだ」
このピカソの言葉。
 
 
 
これは単に想像したものが現実化される、
という引き寄せの法則的なことを言っているのではなく、
 
 
 
わたしはこう解釈している。
 
 
 
 
 
「すでにそれが現実として存在しているから想像できるのだ」
 
 
 
 
 
わたしたちの世界は実は1つではない。
 
 
 
 
あらゆる可能性を持つ世界が今、この瞬間無限のようにあり、
そのすべてが重なりあって存在している。
 
 
 
 
 
時間なんてものはなく、
今という「瞬間」があるだけ。
 
 
 
 
例えばそこに1冊の漫画が置いてあるとして。
 
 
 
 
数々の場面を描いたページが何枚も重なり合って1冊の本の状態になっている。
 
 
 
 
漫画の登場人物達にとってはその世界の中で確かに時間が流れている。
 
 
 
5ページ目の主人公にとって、
118ページ目の主人公は、
未来の自分、ということになる。
 
 
 
しかし、その漫画を手にとって読もうとする
わたしにとっては、どうだろう。
 
 
 
どのページの主人公も「今」、わたしの手の中で重なって存在している。
 
 
 
わたし達の世界も本当はそうなんだろう。
 
 
 
過去も現在も未来も、すべてが同時にそこにある。
 
 
 
それどころか、ちょっとずつ今とは違う世界
 
 
仮に今のわたしだったら、
 
 
 
主人とは結婚しなかった世界、
結婚そのものをしなかった世界、
子供を産まなかった世界、
札幌に住んでいなかった世界、
 
 
 
気の遠くなるような数のIf...もしもの世界、
 
 
 
 
 
あらゆる可能性すべての世界。
 
 
 
 
 
 
そう、パラレルワールドすらも同時にそこにある。
 
 
 
 
こんなファンタジーみたいな事が、
かなり前から科学の分野でも証明されてきている。
 
 
 
 
 
だから、きっと、そうなんだろう。
 
 
 
 
わたしたちが想像することは、
他のパラレルワールドでは現実として存在しているんだろう。
 
 
 
 
わずかにしか感知できないこの身体で。
五感以外の、言葉ではうまく説明ができないような、その感覚を使って。
想像することで、その世界にチャンネルを合わせている。
 
 
 
 
だから、
 
 
 
 
 
「想像できることは、すべて現実なのだ。」
 
 
 
 
 
1ヶ月前、父が他界した。
急死だった。
 
 
 
 
 
 
これからわたしの生きる世界に、父は居ない。
どんなパラレルワールドが存在していたとしても、
 
 
 
 
今後、父が生き返ることは、ない。
 
 
 
 
 
だから、想像することしかできない。
 
 
 
 
 
見えないけど、そこに居てくれてるんじゃないかと。
 
 
 
 
ロウソクの火が揺らめけば、
煙草のにおいを感じたら、
爽やかな風を受けたら、
 
 
 
 
そこに父の存在を感じることができたら、きっと、
 
 
 
 
 
その想像は、現実なんだと。
 
 
 
 
 
父の死は悲しい。
でもわたしは、死とはいったいどういうことなのかが、
この歳になってもよく分かってはいない。
 
 
 
 
 
子供の頃は死が怖かった。
 
 
 
 
 
死んだ後には天国も地獄もなく、
ただ、テレビのスイッチを消すみたいに
パチンと、すべてが無くなってしまうのではないかと思った。
 
 
 
 
それがいつからか、
 
 
 
『死』とは肉体の終わりでしかなく、
魂は永遠に生き続け、また新たな体を持ってこの世に生まれてくる。
 
 
 
 
所謂、輪廻転生を信じるようになっていた。
 
 
 
 
というか、たいていの人はそう思っているのではなかろうか。
君の名は。の大ヒットしかり、
前世だの生まれ変わりだの、
昔は物語の世界の中でしか語られなかったような話を、
今では普通に話している。
 
 
 
 
ん?あれ?どうかな?
普通に話してるのってわたしだけだったかな?
(自分が基準なやつ)
 
 
 
 
 
時代が変わったから?
死生観もいつの間にか変わっていたように思う。
 
 
 
 
この世に生まれて来る時、
今回の人生では、これこれこういうようなことを学びます。
などと、経験するストーリーを決めてくるのだそうな。
バシャールが言うには
 
 
 
『魂の青写真』 というもの。
 
 
 
そして、高い次元からわざわざ波動を落として肉体に入るのだと。
 
 
 
 
地球は多くの魂にとって、
行きたくて行きたくてたまらない、
楽しいレジャーランドのようなものらしい。
 
 
 
 
ディズニーランドは楽しいけれど、
あなたは一生ここから出られません、と言われたとしたらどうだろう。
 
 
 
 
わたしたちがディズニーランドに居続けられないように、
この世で生きる時間には限りがある。
 
 
 
 
父の魂は充分に、このレジャーランドを楽しんだのかもしれない。
そして、生まれるときに決めてきた、
魂の青写真を果たすことができたのではないだろうか。
 
 
 
 
こんなにも制限だらけの
この人間の肉体から解放されて
 
 
 
 
父の魂は今、きっと自由自在に飛び回っている。
 
 
 
 
前前前世があるのだから、
来来来世もあるのだろう。
 
 
 
魂の縁は、切れないという。
 
 
お父さん、また会おうね。