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Cup Soup

いちにちの中で、いちばん考えたこと。

交換日記に限りなく近いなにかです。



『アンダーグラウンド』(1995年)
監督:エミール・クストリッツァ


会社帰りに、でっちさんが予定を空けてくれて、映画に連れてってくれた。
フランス・ドイツ・ハンガリー合作映画で、カンヌ国際映画祭パルムドール受賞。

反ナチに燃えるふたりの男クロとマルコ、
彼らが愛す女優のナタリア、
そしてその周辺の人々の群像劇。

第二次世界大戦中、ナチ政権から逃れるために、彼らの徒党は地下室で武器を作って暮らし始める。

クロが仲間と地下に残り、ボスニアでの内戦の時代になっても、
彼らは地上の敵がまだファシストだと信じていた一方で、
マルコは地上で政治の重役となり、名をあげていく。
地下の人々に嘘をつき続け、ナタリアと結婚までしてしまう。

面白かったのは、マルコが地上でプロパガンダ映画を制作するくだり。
ファシストと戦った名誉の戦士として、クロをたたえるためだ。
(この時点で、クロは地上では亡きものとされている。ひどい!)
監督が配役をそろえるのだが、みんなそっくりなのだ。
ナチの将校役とクロ役が、監督の悪口を話したりしている。
劇中劇なのに、パラレルワールドみたい。

映画自体がそもそも虚構でしかないのだけれど、
戦争や社会といった現実も、本当はどうなのだろうか
作られたもののなかで、我々は暮らしていやしないか、ということを
考えさせられる映画だった。

狂騒的なジプシー・ブラスが耳について離れない。
音楽だけで、こんなにも体力を奪われるのか、とびっくりするくらい疲れた。
あとストーリーもカオスなので、余計つかれる。

でも反復する表象は、意外と細やかで、計算されているなと思った。

マルコの弟イヴァンと猿のソニが教会の模型をつくるシーンがあるのだけど、
クライマックスでイヴァンが命を落とす場所は、まぎれもない教会だったり。

そして作品全体に舞っている、砂埃。
地下の世界でも、地上の戦場でも。
はたしてどちらが虚構でどちらが現実なのだろう。

3時間の映画のエンディングは、まさに大円団だった。
お決まりのジプシー・ブラスをバックに、死後の世界でみんなが宴会を開いている。
裏切り者のマルコを、快く許すクロ。

知的障害を患い、呂律が回らなかったイヴァン。
でも、最後はカメラに向かって流暢にこう語る。

「苦痛と悲しみと喜びなしでは、子供たちにこう伝えられない。
 『むかし、あるところに国があった』、と。」

この最後の語り、でっちさんはいらなかった!と言ってたけど、
私はあってもよかったと思う。

イヴァンではなく、イヴァン役のスラヴコ・スティマツが語ることで、
この映画自体が「つくりもの」なのだ、と再認識させられた。

「虚構/現実」のおかしさ。
そんなテーマを、「戦争」という大テーマと絡めちゃう
スケールのでかさに、拍手を!

文化祭は雨降りだった。

クラギの後輩たちが、毎年恒例でカレー屋と喫茶店を出店するので、

今年もずーと顔を出してきた。


カレーは予想以上に美味しかったので、2杯も食べてしまった。

喫茶店のほうに行くと、門ちゃんがチェロとセッションしていた。

チェロの音を間近で聴くのは初めてだった。

あらためてギターの音量の限界を実感した。

でも、『紫陽花』のカバーは聴いてて面白かった。


喫茶店の小道具は、私たちが考えたのと同じ体裁でまた新しく作りなおされていた。

特に、レーステープを巻いたレシート入れ、

夜なべでせっせと作ったのをひっそりと思いだして、懐かしくなった。



ひととおり回ったあと、ちゃっかりと文コミにも顔を出してみた。


文コミの後輩たちは、ハロウィンの仮装パレードに参加したあとで、

みんなかわいいコスプレのまま、ゴーケンでくつろいでいた。

すごいパワーだ。

私とあいちゃんも、かつてゴーケンで浴衣を着つけて喜んだりなんぞしていたことがあったが、

その比ではない。若い!


みうたんの研究室のドア開いてたので、アポなしだけど乗り込んでみることにした。

3回くらいノックをしたけど返事はなかった。たぶん昼寝をしていたのだろう。

先生は快く招いてくれて、書籍だらけのソファを少し掃除して、座席を作ってくれた。


あのみうたんと、世間話や恋人の話をこんなにできるとは思ってなかった。

先生はさいごに「頑張って。今度、飲みに行きましょう」と言ってくれた。

本当に嬉しかった。


日も暮れてきたけど、I先生も研究室にいらしたので、またまた乗り込むことにした。

I先生も温かく迎えてくださって、1時間くらいぶっ続けでまどマギの話に花を咲かせた。

ちょうど前日にユリイカの特集を買ったばかりだったので、すごく熱いトークになった。


話しあった結果、

女性と男性とではあのアニメの観方は違う、という結論に至った。


女性はあのエンディングが腑に落ちない人が多い。

これはあかねちゃんもいうように、それまで女性たちが観て育ってきた「魔法少女」のエンディングと

大きく異なるから。

少女たちは、なにがあっても、みんなで笑って帰って来なくちゃいけない。


一方、男性たちは最後のまどかの決断にヒロイズムを感じているのだと思う。

何もかも自分で背負う点が、「任侠」的。

「魔法少女」という、かつて少女のものだったジャンルに、

今度は男性が、自分たちの理想の生き様を付加して、己のものとしている。

あいちゃんがローゼンで言ってたことと同じで、ジェンダー、ジャンルの越境が行われている。


では、登場人物の生き方に共感を見いだせない女性たちは、まどマギの何に惹かれたか。

それは劇団イヌカレーによるコラージュ的演出だろうね!ってことで合点した。

まどマギには毎回趣向を凝らした異界が用意されていた。

グロイけど、可愛い。

もっと見たいと思わせるような、無邪気で不気味な、ハートをくすぐる造形。

ただの萌え絵だけだったら、絶対に最後まで見てなかっただろう。


語りに語って学校を後にした。

1日目の祭りは終息して、みな片づけをしていた。


私はあの職場にいる限り、あの学校を、そしてあのコースを

生涯、精神的に卒業できないんじゃないかと思えてきた。

でも、いいや。

こうして好きな映像とか、作品とか、語り合える先生方の近くに住めるのは、幸せだ。


翌日、ずーと久々に街に出た。

私は弁当箱とタンブラーが欲しかったし、ずーは新しいバックが欲しかった。

(私が誕生日にあげたバックを気に入っていたのだけど、タンタンのオヤジにラーメンをこぼされてしまって、

バックは傷んでしまったのだ)


その日はずーとラーメンを食べて、帰った。

休日が終わるのは毎度のことだけど寂しい。


でも、前より心は健康的だ。

今週は忙しいのだけど、また来週仲間と会って、うまい酒を飲むのだ。

楽しみ。


Cup Soup-ユリイカまどマギ

パリの思い出をコラージュにしたくて、マスキングテープを探してたら、

まどマギぽい柄があったので、思わず買ってしまった。

彼女が救った、すべての少女。


ユリイカを読むと、自分はいつだって文コミっ子だって思っちゃうんだ。



『勝手にしやがれ』(1959)フランス映画

ゴダールのことを知らなくてはいけないと思ったのには理由があった。

大学4年の時にクラギで弾いた「東風-Tong Poo-」
あれからYMOにダダハマりしてしまった。

Twitterで、卒論でお世話になった方に聞いて、調べてみたら、
「気狂いピエロ」と「中国女」と「東風-Tong Poo-」は
ゴダール映画のタイトルを借用して坂本龍一がつけたそう。
ゴダール三部作、なにそれ!めっちゃ面白い!
曲調は映画の内容とはまったく関係ないらしいけど。
どんな映画を作る人なのか、気になっていた。

ちょうど時期良く、シネ・ウィンドでゴダール映画祭が開催されていた。
あとヌーヴェル・ヴァーグについても気になっていたので、
映画史を揺るがせたこの作品はやっぱり観ておくべきだと思った。

自動車泥棒をはたらく主人公のミシェルは、チンピラ男。
ひょんなことで警官を射殺してしまう。
追われる身となったミシェル。
でも、パリにいるアメリカ人女子大生パトリシアのことが忘れられない。
彼女を連れてローマに逃亡しようとするが、彼女の方は本当に彼を愛しているのか、
始終ビミョーな態度である。

結局、彼女は警察にミシェルの居場所を密告してしまう。
(自分が本当に彼を愛してるのか、確かめるために!)

撃たれ、路上に倒れるミシェル。
「俺は最低だ」
死ぬ前にそうつぶやくと、彼女は言う。
「最低って、何のこと?」

他愛無い日常会話みたいな台詞を、
これから死ぬ人に向かって口にする彼女に、したたかさのようなものを感じた。

無邪気で素直な生き方が、主人公の人生を破滅に導く。
ある意味で、パトリシアはファム・ファタルだと思う。

聞き覚えのあるフランス語を耳にするのは懐かしく、楽しかったし。
一瞬一瞬の映像がかっこよくて、満足できた。

イラストレーターのおおたうにさんがこの映画をおしゃれの観点から観ていて、
白黒だからこそ、ボーダーが映えると書いていた。
レトロなファッションは今見てもぜんぜん古さを感じさせない。
パトリシアのベリーショートヘアも、真似したいほどかわいい。

全体に流れるジャズ音楽も、破滅に向かうミシェルの人生に
よりデカダン的な彩りを与えているようで。


次はヌーヴェルバーグのもう一人の立役者・トリュフォーの映画を観てみたい。