
九世紀の終わり頃、カンパニア諸侯の闘争は続き、アラブ人が再びティレニア海沿岸地域に襲い掛かりました。特に狙われたのがローマ教皇領で、ジョバンニ(ヨハネ)八世、アドリアーノ二世、ステファノ五世らを悩ませていました。
南イタリアは政治的に断片化していました。カラブリアとアプーリアはアラブ人とビザンチン帝国が「力と同盟のネットワーク」で支配し、ベネヴェントおよびサレルノの2公国がアペニン山脈を東西で二分し、その中に自由都市(カプア、ガエタ)と独立公国(ナポリ、アマルフィ)が点在する、という状況でした。

アラブ人の勢力拡大には誰もが悩んでいましたが、カンパニアの諸国家はむしろ中立的で、カイルワーンのアラブ人の船に港を開放していました。とはいえそこは抜かり無く、ローマ教皇庁の訴えを無視するようなことはしないのでした。
二百年間を通してアマルフィの貿易は活況を呈し、西地中海各地のアラブ人のみならずビザンチン帝国領内にあって「周辺自治」を認められた小国家とも活発に行われました。自治権を承認されていたことは、歴代のアマルフィ総督がビザンチン帝国の爵位を授けられており、それが他ならぬビザンチン皇帝によるものでであることから明らかです。
プルチャリが882年に死去し、セルジオ(父)、セルジオ・ディオダートの子、司教ピエトロ、マンソ、ナポリ人レオーネとその子マリノ二世(アラブ人と対戦)の共同統治、フシリスの名で知られるマンソーネらが総督職を継ぎました。マンソーネはその子マスタロを政治に参加させ、ここにアマルフィの世襲王朝が誕生しました。マスタロはマケドニア朝のビザンチン帝国と同盟関係を維持しました。皇帝ニケフォロス・フォーカスの征服活動によって南イタリアにおけるビザンチン帝国の権威は回復されていました。彼の従順さが好まれたのでしょうか、マスタロは imperialis spatarius candidatus の帝国爵位を授かりました。
その頃、太守イブラヒム・イベン・クルブ率いるカラブリアのアラブ人は、アグロポリの拠点を放棄しつつもなおガリリアーノ川の右岸に陣取り、ベネヴェント公国アテノルフォの遠征を挑発していました。その遠征にはアマルフィの民兵も参加しました。
16年間統治した後、マンソーネは共同統治者のマスタロに権力を委ねて引退しました。サレルノ公グァイフェリオ、ソレント侯セルジオに倣ってサン・ベネデット・ディ・スカラ修道院に引き籠ったのでした。彼は920年頃に亡くなりました。
マスタロ一世は子のレオーネと共同統治し、ビザンチン皇帝たちとの関係を更に深めました。そして皇帝はマスタロにimperialis pátricus、レオーネにproto spatariusの帝国爵位を授けました。このあたりは祖父のマンソネ1世と同様です。
海洋国家ヴェネツィアでは、イコノクラズム(聖像破壊)危機と反ビザンチン路線を経たのち、海洋法廷が統領(ドージェ)にテラクレーゼ・オルソ・イパトを選出し、彼はヴェネツィア初の軍事遠征を成功させました。すなわち、ビザンチン帝国の総督と連合してラヴェンナを解放したのでした。
もはやヴェネツィアは、ほとんど主権を持つ国家となっていました。ビザンチン帝国に従属するという建前だけが九世紀まで続いたのでした。
統領の制度が出来たことは、社会的な不和、個人間の対立、経済的な紛争など、それまで人々の社会生活を不安定にしていたものを安定させるのに役立ちました。