#山に向かって叫びたいこと | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

#山に叫ぼう

ブロンプトンに乗るようになってから、最初は海、次によく山へ行くようになりました。
旧街道の旅も、東海道は「(京都から見て)東の海に沿った道とか、近つ海、遠江への道」ということで、海がらみですが、中山道やその脇往還的性格のある甲州街道は、文字通りの「やまなかみち」です。
前にも書きましたけれど、私は景色や「登る」という立場から、海派か山派かと問われれば、断然「山派」と答えます。
山は天候が急変しやすく、すぐに見えなくなるとか、山の幸よりも海の幸のほうが断然おいしいといわれても、山です。
何十万も飛行機代はたいてゆくヨーロッパも、コートダジュールに行って舌平目のムニエルや、コスタ・デル・ソルへ行ってパエージャ(パエリア)食べるより、チーズ・フォンデューやザワークラウト(キャベツの酢漬け)しかなくても、夏でスキーができなくても、スイスや南ドイツ、北イタリア、チロル、シャモニーへ行きます。


海と山が両方おある場合も同じです。
誰かが本に書いていましたが、神戸のように山が迫っている港町は、横浜のように山が遠い港町に比べて、光線の加減、風の吹き方が違うのです。
大阪や名古屋の港と、長崎や函館を比べても一目瞭然です。
風景学に詳しいわけではないけれど、地面に対して光が垂直に注ぐのと、斜めに注ぐのでは、景色の見え方が全然違います。
神戸の街に六甲おろしの風は吹いても、横浜では吹き降ろす風というのは、日常的には存在しません。
そんな山派の私が、山の日投稿キャンペーンとして、山に向かって叫ぶように、日ごろの思いを語ってみようというお題に乗って、山に向かって叫ぶということはどういうことなのかを考えてみました。


まず、叫ぶという行為自体が、大きな声を発するという点で、ずいぶん感情的な動作に思えます。
日頃街中で叫ぶというのは、事故に遭いそうになったときとか、災害時とか、通常ではない場合です。
だから人のいない、あるいは少なくて、聞こえても迷惑にならないところで大声を出すということは、普段鬱積した思いを外へ出すということで、余計に躁鬱の「躁」の部分に思えてきます。
そして、海に向かって叫ぶのと、山に向かって叫ぶのでは、たとえ同じ言葉を発したとしても、その結果が本質的に異なるように思えてきます。


たとえば、海に向かって大声で叫んでみると、その言葉は海面に流れ出て、波間に漂い、やがて沈んでしまう、或いは、風に乗って水平線の彼方へ飛んで行ってしまう感じがします。
これに対して、山に向かって叫ぶという行為は、こだまを期待してという感じがその典型ですが、山に受け止めてもらって、できれば「何かことば」を返してもらいたいという気持ちになりやすいのではないでしょうか。
よく海は母に、山は父に喩えられますが、同じ言葉を受け止めてもらうにしても、相手が黙然としていた場合、女性はその言葉を包み込んで自分の中に溶かしこんでしまう気がするのに対し、男性は厳然と黙して言葉を抱えている、或いは、ちゃんとした人なら共感性をもって、同じ言葉を返してくれる気がします。
『私は今猛烈に腹を立てている』と叫んだら、『そうか、君は腹が立って仕方ないんだな』というように。
(もちろん、「母なる大地」とか、「山の神は一般的に女性」とか逆の発想もあります)


私は中学生から高校生にかけて、よく独りになれる場所に行って、好きな本を音読しました。
音読って、授業中に指されでもしなければ恥ずかしいものです。
誰もいない海岸や山にオフロードバイクで行って、ポケットにしのばせた文庫本を取り出し、大声で読んでみると、傍目には芝居の本読みのように、演劇の練習でもしているように見えるかもしれませんが、黙読とは違った趣があります。
その際に、浜辺に行って読むと声は波にかき消されてしまうのですが、山の景色が良い場所に行くと、お向かいの山に聞いてもらっているような気持になります。
すると、著者の言葉が自己の声帯から出ていったん山に向かってゆき、そのまま返ってきて自分に入ってくるような気になり、良い意味でのフィードバックになります。

これ、読書を黙読でしかしたことのない人は、ぜひ一度山に行って音読してみてください。
自分が好きな詩句とか、歌の歌詞でもいいのですが、びっくりするくらいによく耳から入ってきます。


朗読はこれくらいにして、「叫ぶ言葉」に話を戻します。

海と違い、山に向かって叫ぶ言葉には定番があります。
そう、「ヤッホー」です。
同じような言葉で、海バージョンは無いでしょう。
(「○○のバカヤロー!」というパターンが思い浮かびましたが、これはテレビドラマかなにかのセリフでしょう)
私はブロンプトンを抱えて峠越えをするようになってから、何度もこの「ヤッホー」を叫びたくなりました。
叫びたくなるくらい、空気がおいしくて深呼吸する機会がたくさんあり、また、そう感嘆したくなるような景色にお目にかかりましたから。


しかし、この「ヤッホー」という言葉、語源は何でしょう。
どうも有力説では、ドイツ語の「ヨッホ」”Yohoo”という、登山者が自分の位置を知らせる合図や掛け声がもとになっているようです。
そういえば、昔トニー・ザイラーというオーストリアのスキー選手がいて、『白銀は招くよ』という映画があって、主題歌に「ホーヤッホ、ホーヤッホ、歌声も招く」という歌詞がありました。
ワンダーフォーゲルの人たちは、「ヤッホー」とよく叫ぶのでしょうかね。
因みに上記のザイラーさん、日本映画『銀嶺の王者』にも出演していて、蔵王の樹氷原や八方尾根で、「ヨロレイヒ~」とヨーデルを歌いながら滑っていましたけれど、私ゲレンデであんな声出して滑っている人、お目にかかったことありません。


これは自分の勝手な思い込みかもしれませんが、「ヨッホ」というのは”Joch”と書いて、ドイツ語で山の鞍部を指します。
登山用語でいう、「~の肩」とか「乗越」「タワ」、「コル」”col”(ラテン語、フランス語)と同じです。
つまり稜線の山と山の間の、いちばん窪んでいるところを「ヨッホ」というのです。
(「ユングフラウヨッホ」などが良い例)
当然、そういう場所は峠ですから、山脈のあちらと向こうで行き来があって、物流などはそこでお互いの荷物を交換するし、旅人にとっては、そこまで登ってきて下りに転じるという場所です。
当然挨拶も交わされたでしょうし、歯を食いしばって上ってきて、峠の頂上まで来て、それ以上目の前に高い山が立ちはだかっておらず、山向こうの景色を俯瞰しながら、峠を越える風に吹かれると、思わず「ヨッホ!」と叫んでしまったのが転訛したのかもしれません。


事実、ブロンプトンで峠越えをすると、「やったぁ」という気分になりますし、旧東海道の箱根東坂や、甲州街道の笹子峠、中山道の和田峠なども、頂上、すなわち鞍部に達した時には「やったぜ!」とか「万歳」を叫びたくなりました。
私は聞いたことがありませんが、神奈川県でもヒルクライムで有名なヤビツ峠にゆくと、秦野から登ってきたサイクリストが雄叫びをあげているのだそうな。
気持ちはわかります。
現代は、この「ヤッホー」は検索エンジンで有名(yahooは”Yet Another Hierarchical Officious Oracle”の略とヤッホーをかけている)になったり、「ヒーハー」とか「ヒャッハー」、「ヤッピー」など亜流の派生語が出ている状況ですが、それでも山登りした人は、やはり両掌を口の左右にたてて、古典的に「ヤッホー」と叫ぶのではないでしょうか。
(このキャンペーンの絵がそのものです)


結局お前は山に向かって何を叫びたいのか、「ヤッホー」か?というところまで来ましたが、正直に言うと、叫ぶなんて畏れ多いことできません。
日本の文化では「山の神」という存在がおわします。
どこの山にも神さまがいて、そのどこかに神社とまではゆかなくても、祠がお祀りしてあったり、自然石や大木にしめ縄が掛けられたりしています。
山で仕事する人たちだけでなく、里に暮らす人にとっても、いつも泰然として同じ場所に同じ姿をたたえている山は、やはり信仰の対象なのです。
旧街道をたどる旅でも、山を眺めるたびに、ああ、昔の人も同じ山をこうして見つめながら旅をしていたのだなと感じます。
関東平野ならどこからでも見える富士山や、地元横浜あたりだと表丹沢の大山(雨降山)がよい例ですが、浅間神社や阿夫利神社に対して言いたいこと叫ぶなんて、キリスト教徒の私でさえ、どこか不敬な感じがします。
いや、イエス様もひとりで山に行ったときは人間には理解できない相手と何か話しこんでいましたし。
ですから、「山に向かって叫びたいこと」の結論は、啄木ではありませんが、「山に向かって感無量で言葉なし、山はどこにある山でもありがたき哉」なのです。

 

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