小学1年の夏から大学入学前まで過ごした前橋

十年ちょっとしかいなかったのに、多感な時期だったからか、想い出はたくさんあります。

大学卒業後、母が前橋に私が戻ってくることを期待しているのはわかっていましたが、当時のカレシだった元夫が司法浪人をすることが決まっていましたし、私は東京を取りました。

母は、私は大丈夫!あこちゃんは平気?が口癖で、常に明るく元気に見えました。

でも、実は違っていて、自宅で貧血になって階段から滑り落ちて、独りで亡くなっていました。
行政解剖の結果、失血死でした。

毎日電話をかけてくる母と連絡がつかなくなって、娘を連れて帰ってみたら、階段で眠るように亡くなっていました。

母が亡くなって、自宅や学生アパートや土地もすべて処分し、私はそれから、前橋から目を背けるようになりました。

財産なんか価値がない。
ともかく母に会いたい。

墓参りのときにタクシーが自宅があった空き地の前を通るとき、私は必ず目をそらしました。
想い出のあるその場所をともかく見たくなかったのです。


また、夜になると泣く生活、そして仕事に行かなくて良い週末には寝込む生活になりました。

現実逃避


離婚等比べ物にならないほど悲しくて、悲しくて、打ちひしがれ、落ち込み、ときどき死んでしまいたいとも思いました。

でも、私には娘がいます。
心配そうに黙って私の顔を覗き込んで、静かに見守り、ときには叱咤激励してくれました。

今は呵られてばかりですけれど。(笑)


母の遺品を片付けているときに、母のメモが何枚もあって、すべてに、

照子
暁子
萌子

と並べて書いてありました。

ママは(そうずっと呼んでいました)、本当に私を愛していて、本当は寂しくて仕方なかったんだと知って、申し訳ないことをしたと後悔と罪悪感がまた襲ってきて、かなり苦しみました。


母の血は私に流れ、さらに娘に流れている。
なのに、私は母を捨てた。
そんな気持ちでした。


数年母の死を引き摺って、前橋に全く行かない時期もありました。

でも、
仕事と、
横で常に励ましてくれる娘と、

さらに、
祖父や母から毎日聞かされた先祖の話が、

また弱くなってしまった私の心の支えになって、娘が小学3年のときだったでしょうか、やっと前向きにまた生きていけるようになりました。

それから、私の名前までが記入されているはずの前橋の図書館に寄付されたという家系図探しが始まりました。

市立や県立の図書館や公文書館への問合せ、市の担当部署への問合せ、本屋への問合せ、森巖寺(母が眠る越前松平家の家臣の寺です)の住職に話を聞いたり。
母が空港を辞めても守りたかった、実は家業ではなく、「豊田家」の名前を求めて延々彷徨いました。

現地に出向いたり郵送で送ってもらったりして、先祖の記録を見たり読んだりしました。

それぞれが、何を考え、何をしてきたのか、知りたかった。

越前松平家初代からの家臣で、時代とともに名前を役職も変わっていきます。
出世した人もいれば、政略結婚で何度も結婚した人もいる。

歴女のように、城替えの順にあちこちのエリア(越前、白河、姫路、川越などなど)を検索しました。

そして、娘が小学5年の年末、ルーツ探しの旅にいくよ~!って、先祖が昔使えた姫路城を訪ね、長刀の名手だった「鋼」おばあさん(私につけられるところだった名前です。汗)が握ったかもしれない長刀を横目で見ながら、先祖が歩いた床、そして階段を娘と進みました。

感慨深かったです、会ったこともない先祖、そして、祖父や母と、同じ時間、そして空間を共有して、同じ空気を吸っているような気がして。

まあ、そんなこんながありまして、ルーツというより、アイデンティティーを確認し、何がわかったわけではないのですが、またがんばろうと思った次第です。

添付は豊田家本家が県に寄付した厩橋城ほかの資料です。
我が家のものもきちんと整理保管しなくてはと思いつつも、そのままになっております。

そうそう、私の名前の入った家系図もまだ見つかっていません。
うちにある家系図にも私の名前は入っていますが、ともかくオリジナルを見たいのです。

娘は、私の名前を早く入れて!と言っています。。。

無名でも、子孫が悩んだときに心の拠り所になるような生き方をしたいなと思います。


Ms. Akiko




$Ms. Akikoの、学びのダイアリー「知識は人生の宝物」


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出典:http://www.archives.pref.gunma.jp/gakko/gakko-shiryosyu/gakko-siryosyu.htm