中学2年3年のときのクラスのクラス会に行って来ました。
予想を遥かに越えてとても楽しい集まりだったので、また参加したいと思っています。

全く仕事とは関係ない想い出をちょっと書かせてください。長いです。

 
今回は幹事の特権で、10年前に急死した親友典子の実家のお店で1次会をさせていただきました。写真は、横浜中華街で修行し、もともと家庭料理中心だったお店に本格中華のメニューを加えた甥御さんが作って食べきれないくらいの量をお土産にと持たせてくれた点心のうちの一部で、しばらく私のお昼ご飯になるコたちです。すごく美味しい!


$Ms. Akikoの、学びのダイアリー「知識は人生の宝物」

典子の実家のお店、前橋市六供町のあづまや:
http://r.gnavi.co.jp/66knngte0000/

みなさん、ご贔屓に!


さて、過去に遡ります。
私は、それまで羽田空港で教官をしていた母親が実家を継ぐということで、小学校1年の夏に前橋に急遽転校しました。
前橋は、それまで住んでいた川崎とは違って、持ち物が違うとか母がズボンだったりというだけで、究極は転校生だというだけで苛められて、罵倒されたり、叩かれたりしていました。弱かった私は言い返すことも先生にも親にも報告することもできず、ただただ耐えて、川崎に帰りたいってずっと思っていました。

小学1-4年生までの私に意地悪をしたコ、しなかったコ、優しくしてくれたコの名前や顔は、45年近くたった今でもはっきり覚えています。
3年のときの教師は生徒を煽るような意地悪な先生で、当時、あんなのは教師になるべきじゃない!と思っていて、今は私も教員になっていますが、生徒を差別する教師になる最悪の可能性を考え、大学の進学の際も私には教育学部受験の選択肢はありませんでした。


小学5年になって私を支援してくれる担任に出逢って、それから読売新聞のコンクールに2回佳作で入賞したことがきっかけで、ちょっと自信もでてきて、このままの弱い自分ではいけない!と自分をマインドコントロールして、苛め発言を受けても段々に泣かない子になっていきました。

中学進学。
仲良しだった友達がだれもいないクラスに放り込まれました。

クラスが決まって整列していたときに、列から離れ、男子を上履きを手に持ち追いかけている女子がいて、すごいな、絶対友達にはなれないな~と眺めていたのですが、それが典子との出逢いの日の出来事でした。

中学に入って、男子2名の苛めの言葉に、私はついに学校を休むようになりました。母が泣きました。気丈な母が映画とかを観ているとき以外で泣いたのを見たのはそのときが初めてでした。

仲良くなり始めていた典子がよく家に来ては、学校にくるように私を促しました。でも、行かずに、理由は典子にも親にも先生にも誰にも言わず休み続けました。

ある日、典子の家に母と遊びにいって、夜帰る道々、母が、よその子はあんなに元気に学校に行っているのに、なんでうちの子は違うのかな、って呟いて、申し訳ないなと思いつつも、でもまた苛められるのが怖くて、学校には相変わらず行けませんでした。

ある日、なにかのきっかけで行ってみよう!という流れになって、母が私にしてくれたことは、ビロードの紺色のリボンを二本買って来て、髪をカールし可愛く結んで、可愛いよ!って励ましてくれたことです。

中学1年の後半にもなっていましたが、毎朝母が優しく髪をとかした後に必ずリボンを結んでくれ、可愛いよ!と送り出してくれました。

2年になって担任がめちゃめちゃ情熱的な人で、私は大きく影響を受け強くなりました。でも、本当は強かったのではなく、がんばって強く見せてきたんだと思います。

陰口や悪口は嫌いで、特にいい人ぶっているのに裏ではって人がとても苦手で近寄らないようにしてきましたが、ともかく思っていることはホームルームでいうことにしていました。
今でもそうですが、思っていることははっきり相手に伝える、意見として伝える。言い方がきつくなることもあるけれど、それ以上の気持ちはなく裏表なくがモットーです。

娘には、ママは生きるのが下手だね!って言われていますが、それは私の経験から生まれた生き方なんだと思います。


典子とは、中学2年のときにクラスが分かれてしまいましたが、付き合いは続いていました。高校に進学し、典子と同じクラスになって、でも、彼女は派手に遊ぶグループ、私は中間グループで、普段は別々の友達といましたが、放課後からはほぼ一緒に行動していました、高校3年までずっと。

不思議な関係だったと思います。


毎日会っているのに、手紙のやり取りをして、電話でも2時間くらい話して。


高校1年と2年のときに学校がつまらなくなって、今度は苛めはなかったけれどまた登校拒否をした私のところに、先生が送り込んできたのは学級委員長以外に、クラスが別になっている典子でした。
お前、豊田(私の旧姓です)と仲良しなんだってな、学校来るようにいってきてくれ!と突然私のクラスの担任に呼び出され、ケーキを持ってきてくれ、なんで私なのよ~、そろそろ学校に来なよ、先生がうるさいからさ~!って言っていましたっけ。


普段、典子のほうが断然しっかりしていて頭も良かったのに、二人になると私がSで典子がM。(笑)
よくブラックジョークをいってはからかってじゃれ合っていました。

大学も別々でしたが、下宿に泊まりにいったり、朝帰りの経験のなかった私の希望で渋谷のバーで明け方前の3時まで一緒に付き合ってくれたり。

その後もいろいろな想い出がありますが、印象的だったのは、やはり元夫の浮気を知って別居し毎日泣いていた1997年の冬のある日のこと。泣きながら電話で愚痴を言っていたときに、ちょっと待っててって電話を切ったかと思ったら、前橋から関越を飛ばして1時間半後には家に到着した典子の行動力のすごさ!

食べてもどんどん痩せてしまって今からはとてもとてもとても想像できないげっそりした姿だった私に、なに幽霊みたいな顔してんのよ!そんな情けないあんたに◯◯(娘)を育てさせるわけには行かない!私が育てるから今から連れて帰るからって、娘の手を引っぱり連れていこうとしていました。

典子のことを想い出すとき頭に流れるのは、今井美樹の「幸せになりたい」。
女同士の友情の曲です。

元夫の愛人も私が全く知らないうちに調べていて、「あんたが会う価値のない女だから放っておきなさい。」と言われたり、びっくりすること満載で、いつも心配してくれていました。ほんとは典子のほうが私よりよほど弱かったし、たぶん大変だったのに。


喧嘩もよくしました。
ちょうど喧嘩の最中、きちんと仲直りをしていなかったときに、典子は亡くなりました、

10年前。44歳でした。

賑やかだった典子は仏教の花の日に仏様になりました。
その半年前にかかってきた電話が最期となりました。

「元気にやっている?」と開口一番訊かれましたが、ちょうど亡くなった母のことで落ち込んで寝込んでいたときだったので、「まあね。」とつれない返事をしたら、「元気ならいいんだ。」そう言って電話は終わりました。

心残りです。


今の私をみたら、幽霊みたいだったのに、どうしたの!?そんなに太って!って必ず大声で言うでしょう。
おばさんに言われました、どうしたの?可愛かったのに相撲取りみたいじゃない!って、典子の代わりに言いますよ、だって。。。

典子がいなくなった2ヶ月後、私は大学院受験を決めました。

お蔭で、今は、見た目も中身も強くなりました。

典子の実家で1次会をした理由。
そんな私を見て欲しかったから、でしょうか。

典子には女の子が二人いますが、典子の亡くなった年から上のお嬢さんとはメールが始まっています。クラス会にも手伝いにきてくれました。
成長するに連れて典子に顔も喋り方も発言内容もそっくりになって来て、たまに典子といるような錯覚に陥ります。
二人の成長が楽しみです。


典子との関係、そして典子との想い出、そして典子からの手紙は、知識以上に私の宝物です。

Ms. Akiko