結果を出すために取り組んだこと〜自分史。
やっと、前回の続きです。
さて、それまでのちょっと残念な伝統をなんとか変えたいと思った私。
いいえ、私だけではありません。
私たち、といったほうがよいでしょう。
たった8人の同志たちでしたが
おかげで私たちは結束することができていたと思います。
もちろん、けんかもしましたよ。
でも、幸か不幸かほぼ全員が同じ幼稚園から小学校をへてきた
すでに10年近い付き合いです。
まずとりくんだのは
目標の共有
だったと思います。
思います、というのはあくまでも私の記憶のなかで書いているので
今となっては事実を正確に表現できているとは限らないから。
都合よく編集されているかもしれないのであしからず。
先輩と一緒にがんばったけれど
やはり脱することがかなわなかった最低ランク。
その悔しさを胸に、私たちはまず、冬にある
アンサンブルコンテスト
に照準をあわせました。
アンサンブルコンテストでは毎年1チームはちゃんと「金賞」を
とってきていた、という実績もあり、
仲良く、一緒に頑張れば結果を出せる、とみんなで思い込んでいました。
◇◇◇
ちょっと補足ですが、
ちょうどこの時期に国体が石川県で開催され、
楽器が一気に新しくなり、高校生と合同練習なんかもあって
とても恵まれたときでもありました。
楽器が古いとか、教えてくれる人がいないとか
言い訳ができなくなった時期、ともいえますが。
◇◇◇
練習はとても頑張りました。
自分たちの中ではとてもいい感じでしあがっている、
そう思い込んでいました。
ふたをあけてみると。
結果は惨敗。
どのパートも銀賞どまり。
いつも1チームはとれていたはずの金賞すらとれなかった私たち。
あのときはあれました。
部活自体の雰囲気はよくなっていたはずなのに
出せなかった結果。
どうして。
絶対に思ってはならないのに
あのときは口にだしてしまっていたように思います。
私たちの学年(=2年生)は8人しかいない。
1年生に足をひっぱられたんだ。
そしてそのとき、先生に直談判。
夏のコンクール、もうひとつ出させてほしい、と。
それまでの私たちは中部日本吹奏楽コンクールの石川県大会にのみ
エントリーしていました。
いわゆる中日コンクールというやつ。
でも、夏の大会にはもうひとつあったのです。
全日本吹奏楽コンクール石川県大会、です。
こちらは全日コンクール、といわれていました。
とにかく、機会がほしい、という一念でした。
一発勝負しかないのがいやだったんです。
そしてそれからの私たちはいろいろなことを
結果に向けて考え、とりくみはじめました。
まず、1年生のせいにしたことは猛反省。
私たちのような小さな中学校の弱小チームは
そもそも大会の定員人数に達することなく出場することが多く
パートが足りないこともありました。
まして、うちらの学年は8人しかいない。
後輩たちに頑張ってもらい、
負けないくらい上手になって、いい見本にならなければ
絶対に結果などでない。
みんなでスローガンかかげて一生懸命、自己流でやる。
それでは頑張った感は出ても
結果はついてこない。
それをアンサンブルコンテストで学んだ私たち。
新学期には必死で部員を募集しました。
そして、全部で33人という人数になりました。
メンバーの3分の1は4月にはじめて楽器をさわったメンバーです。
そのメンバーを含め、
中日コンクールは定員30名。
全日コンクールは定員33名。
全員でとにかく3ランク中の一番下、銅賞をなんとか脱しよう、
という目標設定をしました。
そして、自己流だけではダメだ、ということで
卒業生にあたる、他の学校の先生を無理矢理お願いしてもらい
休日に指導にきていただきました。
それまでもきてくれていた先生はいらっしゃったのですが
私たちの要望で他の先生をよんでいただきました。
OBの方ですが、
他の学校で金賞やその上の代表(県大会から先にすすむ学校)を指導している先生です。
外から先生にきてもらうというのは
顧問の先生にとって、本当は心穏やかではなかったと思います。
でも、先生は耐えてくれました。
ご自身のプライドもあったと思うけれど
先生も私たちと一緒に、とにかく
脱 銅賞
で頑張ってくださいました。
結果を出してきた方にダメなものはダメ、
いいものはいい、といっていただく日々。
学年関係なく、実力でその場できられます。
3年生は一番上手であるように必死でした(笑)。
一番上手で一番練習していなければ
後輩たちが素直に頑張ってはくれませんからね。
残念ながら
私はあの練習の日々を瞬間でしか覚えていません。
新入生に楽器の使い方からおしえる日々は
とても不安だったと思います。
4ヶ月で人前で演奏して評価されるわけですから。
1年生もかわいそうでしたよね。
でも、あのときの私たちは外部の先生の力を借りて
とにかく
結果
にこだわって練習を重ねました。
そして、迎えた7月の終わり。
まずは中日コンクール。
長くなったので、続きはまた。
次は取り組んだ結果、について。
さて、それまでのちょっと残念な伝統をなんとか変えたいと思った私。
いいえ、私だけではありません。
私たち、といったほうがよいでしょう。
たった8人の同志たちでしたが
おかげで私たちは結束することができていたと思います。
もちろん、けんかもしましたよ。
でも、幸か不幸かほぼ全員が同じ幼稚園から小学校をへてきた
すでに10年近い付き合いです。
まずとりくんだのは
目標の共有
だったと思います。
思います、というのはあくまでも私の記憶のなかで書いているので
今となっては事実を正確に表現できているとは限らないから。
都合よく編集されているかもしれないのであしからず。
先輩と一緒にがんばったけれど
やはり脱することがかなわなかった最低ランク。
その悔しさを胸に、私たちはまず、冬にある
アンサンブルコンテスト
に照準をあわせました。
アンサンブルコンテストでは毎年1チームはちゃんと「金賞」を
とってきていた、という実績もあり、
仲良く、一緒に頑張れば結果を出せる、とみんなで思い込んでいました。
◇◇◇
ちょっと補足ですが、
ちょうどこの時期に国体が石川県で開催され、
楽器が一気に新しくなり、高校生と合同練習なんかもあって
とても恵まれたときでもありました。
楽器が古いとか、教えてくれる人がいないとか
言い訳ができなくなった時期、ともいえますが。
◇◇◇
練習はとても頑張りました。
自分たちの中ではとてもいい感じでしあがっている、
そう思い込んでいました。
ふたをあけてみると。
結果は惨敗。
どのパートも銀賞どまり。
いつも1チームはとれていたはずの金賞すらとれなかった私たち。
あのときはあれました。
部活自体の雰囲気はよくなっていたはずなのに
出せなかった結果。
どうして。
絶対に思ってはならないのに
あのときは口にだしてしまっていたように思います。
私たちの学年(=2年生)は8人しかいない。
1年生に足をひっぱられたんだ。
そしてそのとき、先生に直談判。
夏のコンクール、もうひとつ出させてほしい、と。
それまでの私たちは中部日本吹奏楽コンクールの石川県大会にのみ
エントリーしていました。
いわゆる中日コンクールというやつ。
でも、夏の大会にはもうひとつあったのです。
全日本吹奏楽コンクール石川県大会、です。
こちらは全日コンクール、といわれていました。
とにかく、機会がほしい、という一念でした。
一発勝負しかないのがいやだったんです。
そしてそれからの私たちはいろいろなことを
結果に向けて考え、とりくみはじめました。
まず、1年生のせいにしたことは猛反省。
私たちのような小さな中学校の弱小チームは
そもそも大会の定員人数に達することなく出場することが多く
パートが足りないこともありました。
まして、うちらの学年は8人しかいない。
後輩たちに頑張ってもらい、
負けないくらい上手になって、いい見本にならなければ
絶対に結果などでない。
みんなでスローガンかかげて一生懸命、自己流でやる。
それでは頑張った感は出ても
結果はついてこない。
それをアンサンブルコンテストで学んだ私たち。
新学期には必死で部員を募集しました。
そして、全部で33人という人数になりました。
メンバーの3分の1は4月にはじめて楽器をさわったメンバーです。
そのメンバーを含め、
中日コンクールは定員30名。
全日コンクールは定員33名。
全員でとにかく3ランク中の一番下、銅賞をなんとか脱しよう、
という目標設定をしました。
そして、自己流だけではダメだ、ということで
卒業生にあたる、他の学校の先生を無理矢理お願いしてもらい
休日に指導にきていただきました。
それまでもきてくれていた先生はいらっしゃったのですが
私たちの要望で他の先生をよんでいただきました。
OBの方ですが、
他の学校で金賞やその上の代表(県大会から先にすすむ学校)を指導している先生です。
外から先生にきてもらうというのは
顧問の先生にとって、本当は心穏やかではなかったと思います。
でも、先生は耐えてくれました。
ご自身のプライドもあったと思うけれど
先生も私たちと一緒に、とにかく
脱 銅賞
で頑張ってくださいました。
結果を出してきた方にダメなものはダメ、
いいものはいい、といっていただく日々。
学年関係なく、実力でその場できられます。
3年生は一番上手であるように必死でした(笑)。
一番上手で一番練習していなければ
後輩たちが素直に頑張ってはくれませんからね。
残念ながら
私はあの練習の日々を瞬間でしか覚えていません。
新入生に楽器の使い方からおしえる日々は
とても不安だったと思います。
4ヶ月で人前で演奏して評価されるわけですから。
1年生もかわいそうでしたよね。
でも、あのときの私たちは外部の先生の力を借りて
とにかく
結果
にこだわって練習を重ねました。
そして、迎えた7月の終わり。
まずは中日コンクール。
長くなったので、続きはまた。
次は取り組んだ結果、について。