トイレを済ませた彼は今度は反対側の方へとこれまた器用に車椅子を操りながら少しバックしては方向を変え、またバックしては方向をかえて、いつしか手洗いの洗面所に移行していった。その操作をみると、僕よりも大分前に入院したことは予測がついたが、何故未だ退院に至らないのか不思議に感じていた。そうこうしているうちに、今度は隣で、「おお、痛い、おお、痛い」という言葉を連呼する声がきこえた。入れ歯なのだろうか、歯の組み合わせが悪いような喉の奥だけでしゃべる様子がかなりの年輩者を彷彿させる。そして、「ちきしょうめ、なんだってここが痛いんだ」と独り言をのたまいながら、「しかたねーよな、背骨折ってるんだから」とか勝手に納得していたのである。随分と粗野でお喋りな年寄りだなと感じつつも、きっと大工か、植え込み職人かと憶測で判断していると、看護師の女性がその部屋のカーテンを断りながら入ってきたのである。「○○さん、いかがですか、ご様子は?体拭きにきましたよ」語尾のイントネーションが少し上下する事から茨城出身の看護師であろうと思えた。
彼女は優しい言葉をかけながら、痛くないようにとベッドを少し起こし男の衣服をほどき始めた。
彼は始終すみませんねと謝りながら、また、痛い痛いを繰り返した。それから、どうしてこうなったのか、まるで初めてこの病院にかつぎ込まれた時のように詳しく語り始めたのである。
彼は塗装職人で会社で依頼されたとある民家のベランダのサビ止めの塗装をしていたそうである。足場は特に確保せず手すりや外の木にハシゴをかけて処理をしていた。夕方近くになりほぼ作業が終わる頃、もう一つの古い木の枝に脚をかけた瞬間勢いよくその枝が折れ、そのまま背中から落ちてしまったのである。地面は見た目では土ではあったが、わずか数センチ下には御影石が畳二畳ほど埋められていたそうなのである。幸い頭を打つことなく腰と骨盤だけで地面にめり込んだのでその部分の骨折で済んだということであった。
これを聞くだけでもそら、恐ろしいと感じた僕は人はこうも簡単に骨など折れるものかと落胆してしまったのである。高さにしてみればせいぜい二メートル位なものなのに。人の老いはこうしたことでも証明されるのだと思ったのである。
一通り彼の話を聞き終えると、看護師は脚や腕を丹念にふきとって「今度は痛いけどがんばって背中ふきますね」と彼に告げた。
当然彼は抵抗しようとひっしではあったが直ぐに彼女の腕の中で介抱されていったのである。