十七


離れの奥部屋に布団が敷かれてあった。

ピーターはほとほと疲れたようで布団の上に寝転がったとたんに高いびきである。

シュウはそれでもなかなか寝付けなかった。

ぼんやりと今まであったことや、一徳の話を考えていた。

その度に、史江の顔がちらつく。断続的に現れる整ったラインに浮かぶ笑顔や柔らかそうな二の腕、それに女性らしい腰つきや胸など。

ミステリーとミステリーの間に挟まれる淡い青春のともし火は彼を余計に困惑させた。

知っていた少女は既に大人の女性になりつつある。彼の周りに見かけてきた女子より輝いてさえいた。

火照った体を冷まそうと、縁側の戸を引いた。

夏虫の鳴く声が心地よい。月もそのかげりをみせた。まもなく本当の暑さがやってくる。シュウの知る外気とは大分違うこの地の、古今を感じさせる空気。

自分たちの育った町にもかつてはこうした空気があったのだろうかと、史江の言っていた大地震の前のことをふと考えていた。

そして戸を閉め横になった。

やがて彼も深い眠りにつき夢の中で時を過ごす。


シュウはまぶたの裏に張り付き、ぎょろぎょろとそこをなでるほど目が動く、そんな驚きの夢をみた。

今までとは違う空耳であったのだ。

「だめだ、見てはだめだ。それはあけてはならない。決してみてはいけないもの。近づくな……絶対に近づいてはいけない……」

繰り返し聞こえてくる声と、水の中で泡立つ情景が鮮明に映し出された。

何かに手を差し伸ばす、その手は自分の手のようであった。箱のような何か四角いもの上で爪をたてて引掻く素振り。

じれったい感情がこみ上げてきた時にその声が聞こえたのだ。

まるで別の自分がそばで見ているような感じだ。箱を持つ自分に、それを見つめる自分。

それを見る自分をももどかしさを持っていた。

なんとも奇妙で、気味の悪い夢である。そしてその残像を残し、目が覚めた。

脂汗が首周りから垂れていた。

ピーターは寝たままである。

(何なんだ、今の夢は)

手の平を返してみた。汗ばんでいるばかりではない。

爪に先ほど引掻いた痕跡を残すような垢がついていたのである。

シュウは背筋が凍る思いがした。


夜が明けた。

稜は車の中で目を覚ました。

自分が何故ここに居るのか分からない様子で、辺りを見回し車から降りてみた。

高台の際に車避けとして広げられた場所だとすぐにわかった。そこから外を見る。眼下には水面が広がっているのが見えた。

見覚えのない場所。どうして来たのだろうか頭に手を乗せていた。

そこへ一台の軽トラックが通過しようとした。

稜はすぐに車の前に飛び出す。

鼻歌を流していた年配のドライバーが彼の行動のために急ブレーキを踏んだ。

「あむないぞ。いきなって飛び出すなんて」

近江弁が返って来た。

「すみません。いきなりで。ちょっと聞きたいのですが、ここはどこなのでしょうか?」

「はぁ?おまはん、何いーちょうる。どうでほんなこと言うにゃ?あつうてがおうでもみとうがか?」

「下みたらわかるやろ。ここがうみってしらんてはった?」

そういうと、まるで相手にしないような顔をつくり行ってしまった。

「うみ?海…」独特のイントネーションでそれが琵琶湖であることが分かった。

「でもなんでまた」

そう独り言をいうと、頭が割れるほど痛みだした。

夢の記憶が蘇ってきたのである。

稜はその場に倒れ込んだ。うめき声を上げて頭を抑えた。

すると、今度はすうっと立ち上がり車の荷台のほうへ歩み寄った。

頭を抑えることもなく、苦しい様子もない。変わりに、昨日ここに来たときと同じ、無表情の死人のような顔に変わっていた。

ダイビングの機材をあさり、ウエットスーツに着替え始める彼は体が勝手に動いた。

そして、すべてを装着するや、近江八幡は竿飛びのごとく、その崖の上から湖に飛び込んだのであった。

水深が深いところでは通常はアンカーを頼りに下へ降りる。だが、今の稜にはそんなことはお構いなしであった。

水しぶきが縦にあがり、その中の大きな波が崖の方にぶつかった。

波が落ち着くと稜が確実にもぐっていったと分かる空気の泡が湖面に浮いていた。


そのころ、そうした異変を敏感にかぎまわっていたものがいた。

「あらら、来てしまったのね」

「どうした?橙(だいだい)」

「なんでもないわよ。独り言。ちょっと散歩に行ってきてもいい?」

「こっちは構わんよ。今日はお昼前に人が来るからそれまでに戻ってくれれば」

「じゃぁそういうことで。悪いわね、利ちゃん」

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