よくありがちな教室の子供の様子だな。ほほえましいな・・・・・・・・・・・・・・。

 

 と思うのは俺も同じ。子供らしく遊んだり暴れたりケンカしたり、悪戯しているような、ほほえましい光景がここにある・・・・・・・・・・俺の子供のころはほんとうにこんな感じだった。しかし、そんな詩人になって回想シーンに浸ってしまっては今の教師は務まらんだろうなあ・・・・。

 

 黒板の豚の顔は「●●くんのかお」と書いてある・・・・・・・・・ここにすでにいじめの臭いを感じなければならない。その隣のアイアイ傘だって、昔はただの冷やかしだったけれど、今は立派ないじめの要素だ。子供らしい取っ組み合いをしている子たちだって、笑顔だからって見過ごしてはダメだね。教室の入り口に固まっている子供たちだって、なんだか不穏な空気を漂わせているし、右下で給食を受け取った子が、周りの子に囃し立てられているのは、食べ物に絡むあだ名や嫌がらせをされているのかも・・・・・・・・。

 

 この絵を描いた人はすごいなあと思う。子供らしい抒情詩に見えても、その気になってみれば教室はいじめが頻発している場所に見え始めるからだ。そう、まさに教師の気分をいっとき味あわせてくれる絵だ。そもそも、子供というのはそれなりにやんちゃで時に悪魔チックなこともする。子供の無邪気さはときに天使なのか悪魔なのか、きわどい線を走り抜けていくからね。そして、

 

 ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』を読んでみれば、そのあたりの事情にぞっとするだろうね。

 

 この場面に見える子供のどっからどこまでが無邪気なじゃれ合いで、どこまでがいじめなのか?担任が一人で順番に話を聞いて回っても、この一瞬に何が起きているのかを把握することはできない。10分、20分と時間が経過してしまえば、子供たちの意識は変質してしまうよ。たった7.8年の人生を生きている彼ら、彼女らには、10分と言う時間は我々が考えているよりも長い。こんな中で「いじめはなかった」という有名なセリフが生まれてくるのだよ。隠してるわけじゃないのね。本当に「子供らしい無邪気な光景だなあ」と思っている人が、多少のことがあっても、それはまあ、子供だから・・・・・・・・・・・・・という具合になることもある。

 

 さて、ここで大事なことは、「いじめはなかった」じゃなくて、このカオスな教室の中で正確にいじめを発見することだ・・・・・・・・・・・・そんなの当たり前だろうと思ってるあなた。本当にそう思ってますか?そうして教師の職人芸的な観察力で、このカオスの中からいじめを掬い上げたとして、あなたは何といいますか。

 

 「●●小学校でいじめがあったって?教師は何をやってるんだ?」

 

 大体の人はこういうはず。多数の人間か集まる中でいじめは不可避ですよ。大の大人だって職場でやらかしている光景をみなさんもたくさん見ているはず。だとすれば、どれだけいじめを「発見したか」こそが大事であって、発見した件数の多い学校ほど「よくやってる」という評価をされるべきだけどね。だって、いじめはなくならないのだから。殺人がいつまでもなくならないように。

 

 しかし、このカオスの中から親も気づかなかったいじめを発見しても、まずその親からけちょんけちょんに非難されるのが当たり前になってるのが今の世の中なのね。いじめを発見するということは、簡単なようで大変なことなのは上記の絵を見てもらうだけでも、ちょっとは感じてもらえるはず。

 

 別に、見つけたことを褒めろとはいわないけどね。見つけるだけの力量を持った教師をぼろくそに叩くことだけはやめてほしいもんだな。そうして有能な教師をつぶして「いじめはなかった」としか言えない教師ばかりにしてしまうのは、実はそういう正義の味方さんなんだよね。