夢への道は、線路か獣道か | 道標を探して

道標を探して

 ただ、そこに進んでみたい道がある。
 仰いで見たい空がある。
 踏んでみたい土がある。
 嗅いで見たい風がある。
 会ってみたい、人がいる。

 個人的には後者のほうが面白そうなので、獣道を選択したい。野垂れ死にできればなお本望だ。


 大学生活の夏休みも、はやくて10日近く経っている。
 正直、なにも将来に対した建設的なことというものをやらずに、のうのうと過ごしていると、何が自分の将来の目標だ夢だと自分自身に言ってやりたくなる。

 ともあれ、作家になりたいと言ってもやれることなんて小説の複写、音読、なんかと言ったことが主で、立派にゆとり的に育ってしまった私の体やら精神やらでは相当にきついものがある。まあ、そんなことを書いた時点で言い訳にしかならず、さらに目標から遠ざけてしまうこと請け合いなわけだが。

 私は私の物語を書きたい。そう思ってこの道を、今歩いている道が正しいかどうかもわからないまま歩いている。
 どんなことへの下準備として必要ではあると思うが、となると知識と経験が必要になってくるわけだ。凡人の経験する、学び取ること。そして稀有なそれらも臆病になることなく飛び込んでいかなければならんわけだ。
 かといって他人がどんなことに興味を持って、今どんなことに脳細胞を働かせているのか、私は解らない。大方一人のときはテレビやケータイ、複数人いるときには買い物やカラオケ、たまに旅行に行くなどしてその経験値を高めていることだろうと推測するくらいだ。

 しかしこの時代に生まれてきたことには感謝している。たまに初対面の人と話すときがあるが、たいていの場合彼らは非常にキャラクターが薄っぺらい。人間が持つ臭さ、つまり独特の癖や特別な行動理念を持ち合わせていることが極端に少ない。

 どんなものが、彼らの心理にそういった人間性の薄味に仕立て上げるために効果を発揮させているかはわからないが、これが半世紀前ならきっと様々な人間がいて、そこにはそれぞれ人によっては近づきたくもならないようなものすごい個性を持っている人間がうじゃうじゃいたはずである。祖父母の世代の人間と話しているとそれが如実に出ていて、とても面白い。


 いまなら、当時50代などある程度人間的に成熟していなければ書くことができなかった芸術作品が、私のような若造でも努力しだいで書ける。人間が軽薄化しているから、含蓄が少量であっても、大半の人間は腹いっぱいになって「あぁ、うまかった」と思い、本を閉じてくれるだろう。


 明日から5日ほど、母の実家の帰省に付き合って兵庫県は西宮に行ってくる。本は日数分持っていくつもりだ。空いた時間に書を広げ、大半の時間は広範囲になった自分の活動範囲を生かして、できる限り多くの土地を訪ねてみるつもりでいる。ようやっと有意義なことができる。無駄に過ごした日々からの利子をおつりが出るほどの経験で埋め合わせることができれば大成功だが、どうなることか。

 まあ、何か大きい物を一つ持って帰れれば、よしとしよう。

サイクリング途中の小川







一言
願わくば、可愛い女の子と知り合いたいなぁ、大学いくことになってから男としかつるんでねぇ