朝風 | 道標を探して

道標を探して

 ただ、そこに進んでみたい道がある。
 仰いで見たい空がある。
 踏んでみたい土がある。
 嗅いで見たい風がある。
 会ってみたい、人がいる。

夏になった。夜に冷やされた空気が朝になって動き出し、それを心地よく感じるようになってどれくらいの日々が重なっているのだろうか。鬱屈とした昼も夜も相変わらずだというのに、この朝という時だけは、常に清々しく風を窓から通して「おはよう」と頬を撫で付けてくれる。



そんな朝は、一年を通して寝覚めの悪い私に聞こえぬ第一声のかけてくれる朝は、私が忙しいときによくやってきた。思い出すとよく会っていたのが、行きたくもない部活に渋々ながらも至極真面目に通っていた頃だった。そう考えると、高校時代は全く相手にされていなかったように思う。

それはそうだ。あの頃は部活なんて考えを浮かべる前に、自分の生きる方針のようなものを見つけようと必死だった時期だったから、部活なんぞ行っている精神的・身体的余裕なんて無かったようなものだ。



となると、この毎日挨拶を交わすような感覚は実に四年ぶりのこととなる。月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なりとは、松尾芭蕉はよく言ったものだが、四年ぶりの再開を思い、その間のことを思うと、どうやら私の立場は旅人の帰りを待つ村人のような存在らしい。気づけば早く過ぎたものである。どこがどう成長し、どこを過去の残滓として持っているのかも自覚できない。だがそれは、年の長さはそれほどにくたびれるような、薄皮を剥ぐような大差ない日々の連続であった事を考えさせられる。

今日の風はひときわ涼しかった。空気も澄んでいたように思う。




私は今、東京へと片道二時間半の道を週五日で通っている。現代的に見れば、十分にこれも旅と言えるのではなかろうか。

夏の日光(ひびかり)は肌を灼くように熱いが、この朝の涼しさを思えば、アメとムチと言った所なのかもしれない。



確かに、涼しいというのは寒いことの一歩手前だと考えると、あまりそれにすがるのも体に悪かろう。室内では冷房も効いているし、せめて外にいる時くらい、この日光のムチを受けてみた方がいいのかもしれない。



私は今、電車の中だ。
この先で駅を降り、徒歩で学校まで向かうことを思うとやるせなくなるが、まあ仕方ないと思って諦め、朝のあの風のように、照り輝く日差しにも長所を求めてみることとしよう。



久々の朝の風との再開に冷めていた心を温められた恩返しとしても、別に悪いことではないだろう。







一言
誰か煙草おごってくれよ