震災 3,11 | 道標を探して

道標を探して

 ただ、そこに進んでみたい道がある。
 仰いで見たい空がある。
 踏んでみたい土がある。
 嗅いで見たい風がある。
 会ってみたい、人がいる。

まだ以前書いたブログの引越しが終わってないんだけど・・・まあいいや

去年、僕の住んでる千葉県山武郡に、震度5弱の地震が起きた。
揺れが大きかったのは一度目より二度目だった。

直後に停電が起こった、電気が流れず、少々困惑した。

数時間して、空に黒い雲が流れ始めた。

最初は何かと思ったが、ラジオや携帯の連絡でそれが石油コンビナートで起こった家事によってできた黒煙だと知った。
地震の規模の大きさが把握できず、またこの時間帯はまだ
「我が家でも家が倒れなかったくらいだ、よそでも大体同じだろう」とのんきに構えていることができた。

夜、未だに電気が通らず、まだしまっていなかった石油ストーブに着火。遠赤外線の効果もあってか、かなり温まったし、また、光源ができたので読書などいささかひまつぶしの余裕ができた。

電気が通ってなかったので、車のエンジンを回し、車内にある変換プラグ(大体どの車にもついてる)に変換器を差し込んで、携帯電話やその他必需品を逐次充電していた。

翌日、電気復旧、そして、学校登校をすると、本日は休校であるという。

何かと思えば、そう、福島第一原発の放射能問題によっての休校。

当然すぐ家に帰って、事情を説明した。

以降2ヶ月ほど、僕は友達と議論を重ねたが、結果として出てきたのは「本来の意味で僕たちが被災者ほか様々なものに対して打つ手立ては皆無である」ということだった。

しかし、そんなことをしても自分にはまだ本当にこれが実際に起きているのか実感がわかなかった。

一番最初にそれを僕に理解させてくれたのは TSUNAMI 3,11 という写真集だった気がする。
家畜が流され、立ち往生し、「長さ」がまちまちな人たちが毛布やビニールにくるまれている写真。

そのあと、僕は日本のマスコミが規制されている、さらに被災者に近い現実をインターネットで探し続けた。

結果、やっと震災を理解できたのは先週のことだった。

その期間になるまで事実を事実と認定できなかった。
余りにも現実がリアリティを欠如していたから。

だが、最近ふと、ああ、あの地震は本当に起こったんだなと納得した。
きっかけや原因なんていうものはない。本当にふと思っただけなのだ。

そして、今日は電気が使える、放射能問題の認識が甘くなっている、復興がほんの少し始まっている、知人をなくした被災者の傷は癒え切らない、総理の一部対応が明らかになって個人的には安心した、総理が代わった、家の建て替えが済んだ家庭があるだろう、もう住めなきなってしまった地域があるだろう……

だが立ち上がらずには居られない、過ぎたことに時間は寛容ではないのだ、立ち上がるしか選択肢がない、残酷な運命だが、それが嫌なら死ぬしかない。事実である。

昨日、3月10日は東京大空襲で最も被害の多かった日だ。

でも、新しい自身の方が国民にとっては大事なのだろう、ほとんど完全に忘れ去られていた。
今までを振り返ろうというのなら、しっかりと別の日にあった過去の惨事は別に悔いてもらいたい。

そして僕はそれを踏まえて一つ。

地震の件は大事だ、ものすごく大事だ。
でも、それで過去の戦争という超大量の死者が出た事の、現在の首都が攻撃された事実を最近の災害ごときで忘れられては困る、ものすごく困る。

そんな意識だから原発の放射能意識も、地震自体もこんなにも回復が遅くなったんじゃないのか?
違うのか?


ちゃんと自身で考える力を持って欲しい、先進国の落ちこぼれになったのもそのあたりが原因だと僕は思う。