令和五年11月4日、お母ちゃんが95歳で逝ってしもうた。昭和3年生まれ、戦時中は陸軍の女子挺身隊に出ていて広島市内にいたので、原爆投下後、たくさんの被爆者の救護を行ったそうだ。戦後結婚して二男二女を産んだが、二女のお姉ちゃんは生まれてすぐ亡くなり、長女のお姉ちゃんは昭和62年に37歳で逝った。親父は昭和38年に37歳で他界している。お母ちゃんは親父が他界した後は再婚もせずに女手一つで二男の自分と長男の兄貴を育てた。親父は家を建ててすぐに亡くなったので、お母ちゃんは熊野筆の仕事を自宅でしながら借金や子育てで大変な毎日だったと思う∑(゚Д゚)でも自分が子供の時から覚えているお母ちゃんはいつも笑顔でいつも鼻歌を歌っていて、何か人生を楽しんでいるようなお母ちゃんの姿しか無い。とにかく明るい人だった(^^)そして何より末っ子の自分をものすごく可愛がってくれた。そんなお母ちゃんが82才くらいの時、車に跳ねられて両手両足を骨折、血を吐いて、もうこのまま逝くのかと覚悟していたが、なんと!復活!手押し車を押して自分で買い物に行けるほど回復(^○^)その後89才の頃脳梗塞からの後遺症で寝たきりになり、7年近いの闘病生活から11月4日午後6時25分、あの世に旅立ちました。旅立ったその日、昼前に面会していたけど、呼吸が苦しそうで、ある程度の覚悟はしていた。まだコロナ禍の名残があり、付き添いが出来なかったのが心残りです。


夕方お母ちゃんが逝って、その日のうちにお母ちゃんが帰りたくて帰りたくて仕方なかった熊野町の家に連れて帰った。お母ちゃんの初孫でものすごく可愛がって愛情注いでもらったうちの長女、そしてお母ちゃんの可愛い可愛い孫達も涙が枯れるくらい泣いたな。翌朝枕経をあげてもらい、JAセレモ館に連れて行ってもらった。


お通夜の準備、葬儀は親族葬としました。


通夜式、ごく近い親族のみ。みんなお母ちゃんの人柄をよく知っている人たちです。

通夜式の後は控室でお母ちゃんの話や、皆んなが若い頃の話、いろんな話で盛り上がって、夜中まで賑やかなお通夜じゃった!お母ちゃん賑やかで嬉しかったじゃろうな(^^)


通夜式葬儀は記帳のみとさせていただきました。



翌日、つつがなく葬儀が終了。


お母ちゃん、皆んなに花で埋めてもらって嬉しかったじゃろうな。皆んなで泣いたな。自分はお母ちゃんに何も親孝行出来なかったけど、たくさんの愛情をありがとうね。こんな一言では感謝は表しきれないんじゃけど。


お母ちゃんと呉市斎場へ。



斎場に着いたけど、長女と二女が道に迷って遅れたので、最後のお別れ少し待ってもらいました。皆んな揃ってお別れ出来て良かったな。お母ちゃん嬉しいじゃろうな。




骨になったお母ちゃん、白骨になった姿を見ると何か諦めがついた気がした。



斎場からお寺に行き、初七日の法要をしてもらいました。人の後光が見えるうちの長男、人それぞれ色が違うそうで、初七日の法要の最中、お母ちゃんの遺影が金色に光って見えていたそうで、本人も鳥肌が立ったと言っていた。浄土真宗で言う「御浄土」とは阿弥陀如来様がお立ちになり、その周りはキラキラと金色の世界なんだそうです。お母ちゃんも「御浄土」へ導いてもらえたんだろうなと、なにか嬉しい気がした。




お骨になって家に帰ってきたお母ちゃん、皆んなとお最後の別れ出来て良かったね(^^)向こうでは先に逝った親父や姉達とまた家族じゃね。



四十九日の法要まではお母ちゃん、お世話になった皆さんに挨拶して回るのかな?


末っ子の自分が自分の残り年数を気にする歳になるまでお母ちゃんは生きてくれたね(^^)親父の分まで生きたお母ちゃん、一言や二言でお別れの言葉には出来んのじゃけど、本当にありがとうね。