2024年2月11日宗麟原慰霊塔へ。
天正6年(1578年)11月、日向のほぼ全域を手中に収めた島津氏と、豊後の大友氏の壮絶な戦いが木城町高城川原(小丸川)で行われた。
西の関ヶ原といわれた九州を二分する合戦である。
大激戦の末、大友軍は大敗し、島津軍は逃げる大友軍を美々津の耳川まで追撃し、この間の草原は血に染められたと伝えられている。
戦死者の数は、大友軍4千、島津軍3千といわれ、その死者を葬ったのがこの円塚である。
宗麟原供養塔は、7回忌にあたる天正13年に高城城主山田新介有信が、敵味方の区別なく戦死者の霊を慰めるために建てたものである。
供養に来た人が打ち鳴らす鐘(写真右)の音から、「かんかん仏」の愛称で親しまれている。
供養塔の高さは約3.5m(台座を合わせた高さ)であり、一辺24mの円塚の一部を削って建立されている。
「本来無東西 何処有南北 迷故三界城 悟故十方空(本来東西なし、いづくにか南北あらんや、迷うが故に三界は城、悟るが故に十方空)」と刻まれている。
意味としては、以下のような内容である。
「人々はこちらが東、こちらが西と言っているが、これは本来(ずっと古い時代から)あったものではなく、人間が方向を知るために、仮に定めたものに過ぎない。
東西がそうであるから、南と北も同様に、人間が仮に定めたことに過ぎず、本来あるはずはない。
しかしこのようなことに迷うから東があり西があり、南は薩摩、北は豊後として敵対するようになるのである。
悟れば南も北もなくなり、みな日本人となる。即ち十方空である。」
人間は死んでしまえば十方空、すなわち敵も味方もない世界に行く、ということである。
これは人間の生涯のあり方を示す仏教の言葉であり、このような仏典を引用して両軍の各霊を弔った山田新介有信の優れた人間性を偲んでやまないものがある。
川南町役場より引用