昔々 今よりもっと若いころ
私は毎日死にたかった。
今はあっけらかんと生きていて、
悲しいことも腹立つこともフラれても、
そんなことすら泣き笑っているくらい あっけらかんとしているが、
友達はまぁそれなりにいたのに、
自分の周りには誰もいないような気がしていた。
誰の心の中にも記憶の中にも、私の存在はない。と感じていた。
そして、この地球上に身の置き所がない=居場所がない。とも感じていた。
あるとき、もう30も越えていたが、どうにもこうにもたまらなく恋をした人がいて。
フラれて絶望のズンドコに、、、 もうホントに落ちました![]()
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「その人なしで、この世なんか生きていたくない」
「この世に何の望みも感じないし、この世に興味のない」
だから死にたい。
そう親友(と、その人が連呼してたから“そーなんだー”と思ってた人)に話したとき。
残された人たちが悲しむ
何の解決にもならない
他人に迷惑がかかる
と、コンコンと強い口調で説教された。
うつ状態に近いほど落ち込んでる上に、まだ生きなきゃならん。
かつ、この言葉に励ましも共感も何にも感じられず、納得いかない感が...言葉にならない納得いかない感が強く残った。
言葉にならない納得いかない感。
その後しばらく経って、言葉にできました。
「うぉい。私の気持ちは?(゚Д゚#)!
」
そう。ないがしろにされた感だったんですね。
しかも、その親友とやら本人は、「あなたが死んだら、私は悲しいし寂しい」とも言わなかったなぁww
さらに経って、心屋仁之助さんやナリ心理学さん、子宮委員長はるさんのブログと出会い、
「死にたい」に関するワタシ的考察を重ねた結果、
「死にたい」を思うこと、生きることを捨てて死を選ぶことは、
何一つ悪いことではなく、その人自身がそれを選択できたことを
何より良しとしていいじゃないか。
自殺でなくても、人は死ねば他人のお世話になる。
残す人たちを優先して、さらに心に身を切りながら生きろ、と?
もちろんいつかは癒えるかもしれない。
だが、いつかは知らん。
生きることを捨て去りたいほどの精神状態の時に、
そんな「いつか」はさらに絶望だ。何の慰めにもならん。
何の解決にもならん?
今この苦しみから離れられることが何よりの解決だ。
私は自殺未遂もしたことはないが
(せいぜい手首にうっすーい切り傷なら入れた程度だ)
「自殺・死にたい気持ち」に対する周囲の反応で、自分を傷つけてきた。
自分の気持ちや感情をまずは大事にしよう。
そう動き出したときに心の底から感じたのが、
今日のブログのタイトル「私が自殺しても、誰も悲しむ必要はない。」だ。
悲しむよりむしろ、「私の心からの選択だったんだ。本当の望みを叶えたんだね」と、喜んでほしい。
んーーー。
ここまで書きましたけども、別に自殺をしようとしているわけではありません。
しかも、書けば書くほどにまとまりを失いました。すみませんm(_ _)m
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
今日も皆さまに幸あれ~~![]()
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