幸せと勉強って似ている。


勉強って教わるもの、教えてもらうものだと思っている人が多い。

塾が流行っているのも、その一端だろう。

学生を教えた経験があるが、受け身でーすっていう感じだった。

講義、授業っていうのがあって、そこで先生が何か宣っている。

試験直前にあわてて詰め込むことで、何とかしのぐ。

もっとも、これに関してはエラそうな事は言えない。

自分も学生時代の大半はそうだったから。

でもね、学力っていうのは、誰かに何かを教わったから付くものじゃない。

自分でどれだけやったか、あるいはどれだけ課題や疑問点を持って授業に臨んだかにつきる。

だから学力を上げたいなら、まずは自分で勉強することだ。

それでも足りないなら、塾もいいだろう。

きっと目の前で素晴らしい講義が展開され、やった気になるから。


一方、幸せってなるもの、与えてもらうものだと思っている人が多い。

お陰信仰やスピリチュアルが流行っているのも、その一端だろう。

宗教を信仰した経験があるが、みんな受け身だった。

講演みたいなものがあって、そこで教祖が何か宣っている。

お布施や神様事をすることで、幸せになろうと、助かろうとする。

もっとも、これに関してはエラそうな事は言えない。

自分も宗教してた時はそうだったから。

でもね、幸せっていうのは、誰かがしてくれるものじゃない。

自分でどれだけ幸せでいるか、あるいはどれだけ自分を幸せにしたかにつきる。

だから幸せになりたいなら、まずは今を精一杯生きることだ。

それでも足りないなら、宗教もいいだろう。

きっと目の前で素晴らしい儀式が展開され、もうすぐ幸せになれそうな気になるから。


こんなに勉強と幸せが似てるなら、勉強法を応用すれば、幸せになる方法を考えられるんじゃないか?!

勉強法の極意。

それはとにかく基本が大事。

基礎を徹底的に叩き込むこと。

1+1=2を考える必要がないように、基礎項目に関しては、これと同じレベルにすることだ。

これは身をもって経験したし、ドラゴン桜でも同じことを言ってたので間違いないと思っている。

高3の夏休み、教科書を徹底的に読んだ、理解した。

繰り返し、繰り返し、何度も。

分厚い参考書や問題集なんてやらなかった。

周りの受験生が、いかにも!っていう参考書や問題集を図書館で山積みにする中で、僕の机の上には学校で配布された教科書が数冊だけ。

一語一句、どういう意味なのか、なぜこう書いたのか、考え抜いた。

例題は穴があくまで見た。

夏休みは320時間、教科書精読に費やした。


学校名物、年3回の実力テスト。

うちは伝統校(自称)で、予備校の模試や定期試験は関係なくて、この実力テストで進路が決まる。

長年のデータが蓄積されているので、的中率は高い(らしい)。

なにが名物かって、とにかく難しくて、平均点は30-40点ほどだ。

忘れもしない最後の実力テスト。

得意教科だった数学と理科。

問題をみてビックリした。

なぜこんなに簡単なんだ?!

センター直前だから?

問題を見て答えは簡単に浮かぶし、先生がひっかけようとしている意図もわかる。

ここは解いてくれよという仏心まで見える。

解答するのに、頭を使うというか悩むみたいな感覚はない。

頭の中にある答えを間違いないよう、なるべく丁寧に、見落としのないように書いていく作業だった。

結果は驚くべき高得点だったが、平均点はいつも通り30-40点。

よって、偏差値はとんでもなく高かった。

でも志望校は変えなかったが、その辺の事情は割愛。

変えときゃ良かったかなぁ(汗)。

この経験を「幸せ」に応用することについて、本気出して考えてみようと思う。
僕がかつて小僧の頃 イメージした壮大な
人生プランからは多少見劣りはする
案外普通だし 常識的な これまでだ
それはそれなりに そう悪くはないのさ

そのプランなら 今頃じゃ マイケル的生活で
世界をまたにかけて いたはずなんだけれど
現実はすまし顔で クルクル時計を回す
そっちがその気ならと好きな事してきたし

それとなく流れていく日々のそこかしこに
君がいて 次々と溢れる気持ちを胸に

幸せについて本気出して考えてみたら
いつでも同じ所に行きつくのさ
君も幸せについて考えてみてよ
後で答え合わせしよう 少しはあってるかなぁ?

つまんない事 嬉しい事 繰り返して結局
トータルで半分になるってよく聞くじゃない?
そんな淋しい事 言うなよって感じだ どうにか
勝ち越してみたい 密かに全勝狙い

誰だってそれなりに人生を頑張ってる
時々はその「それなり」さえも誉めてほしい

幸せについて本気出して考えてみたら
意外になくはないんだと気が付いた
僕は幸せに対して失礼だったみたい
もう一度丁寧に感じて 拾って集めてみよう

がっかりしたかい 小僧の僕 マイケルにはなれなかった
ただ僕は大好きな幸せの種を手に入れた

幸せについて本気出して考えてみたら
いつでも同じ所に行きつくのさ
君も幸せについて考えてみてよ
僕の姿は浮かんでる?いつまでも消えないように


真実は一つしかない。

しかし現実は、人の数だけ存在している。

真実を見る/体験する人の数だけ、その受け取り方や考え方が違うからだ。

そしてみな、(自分の)現実=真実と思っている。

だから「これが真実です」と言われると、そこはかとない違和感を感じる。

逆に「これが真実です」と言われて違和感を感じない場合、「共感できるぅ~」「だよねぇ~」となる。

実際には、言葉などの制約があるので、本当の意味で互いの現実が一致することはない。

AさんとBさんがいたとしよう。

Aさんの現実→Aさんが言葉に置き換える→Bさんがそれを聞く→Aさんの言葉、身振り、表情などから情報を収集→Bさんの現実と付き合わせる

ピタッと合ったと感じても、正確にはズレているのだろう。

人は千差万別だから、このレベルでも一致した!と思えば、完全一致に感じる。


自分の現実を、どんなに説明しても伝わらない。

形のなきものを、言葉で文章で、精一杯に届けてもダメだ。

そんなものより、形あるもの1つの方が、重い。

全然重い。

それが真実とは程遠く、かけ離れていても、重い。

真実味を持つ。

たぶんそれは、形あるものに対して、自分の物差し、価値観を使ってアプローチできるからだ。

形ないもの+発信者の価値観だと、そこには時として受け入れがたい考え方が包含される。

例えばドクターが患者に「あなたの歯は悪い状態なので、すぐに治療した方がいい」と言ったとする。

「すぐに治療」という受け入れがたいものに抵抗感を持ち、挙げ句に「あなたの歯は悪い状態」が嘘ではないかと疑いが生じる。

もし歯科用CTでその歯を撮影して、患者さんに見せたとする。

この場合、ドクターが多くを語る必要はない。

真実味を持つ画像を患者が自分の目と物差しで判断して、「先生、すぐに治療して下さい」と言うのだから。

例えそれが、すぐに治療する必要がなくてもだ。


形あるものに至った経緯には、必ず形なきものがある。

しかし、多くの場合、そんなことはすっ飛ばされてしまう。

形あるものが「悪」に見えれば、形なきものもきっと「悪」だろうと決めつけられる。

たぶんきっと、誰もが性善説。

形なきものは善だった。

心は善だったはずだ。

小さな子が誰かを叩いた。

これは悪なのか?

中学生が万引きをした。

これは悪なのか?


結果として悪でも、その性根が悪だったとは限らない。

「悪いこと」をした理由が、いかんともしがたい環境、そうするしかない状況だったかもしれない。

そんな形なきものは一笑に付され、形あるもので全てが決まる。

この世の中は、結果のみが判断される。

形あるものが、全ての判断材料だ。

「悪いこと」をすれば「悪人」というレッテルを貼られ、かわいそうな人という位置づけをされる。

ずっとそんな判断基準でいいのだろうか。

「悪いこと」を裁くことが正義である以上、仕方のないことなのか。

形なきものが善のうちに、誰かが助けてあげられる世の中になってほしいと切に願う。

「悪いこと」を裁くことが正義なら、そんな正義、俺ははいらねぇ!

形なきものが「悪」にならないよう、手助けできる人になる!

形なきものが「悪」になってしまったとしても、そこに深く分け入り、元の清らかな状態に戻せる道を示すことができる、そんな人になる!

それは正義なんていう高尚なものじゃなくて、素晴らしいお節介だ。

そんな人になりたい・・・

またひとつ、生きる理由ができた。