後醍醐天皇が東大寺の協力を得られず東大寺の影響下にあった笠置山に元弘元年(1331年)8月に移動すると、護良親王も笠置山に出向いたものと思われます。
その後、楠木正成に同行して同年9月から赤坂城に篭ります。恐らく天皇方として挙兵した正成に、天皇の名代として護良親王を使したものと思われます。それを根拠に護良親王としても令旨を発しています。
笠置山が幕府方の奇襲で陥落すると赤坂城も撤退を余儀なくされます。護良親王はこのとき赤坂城にいたお陰で落ち延びることができ、奈良の般若寺に逃れたとされています。
当時の大和は興福寺の強い影響力下にあり、幕府も容易には出兵が出来なかったものと思われます。そのため、護良親王は大和国内で潜伏することが出来ました。もちろん、興福寺や東大寺にも幕府方の僧兵もいましたから護良親王が捕まる危険性はありました。般若寺では、お経の入った唐櫃に隠れて難を逃れたと伝えられています。
その後は熊野を目指したものの熊野別当が幕府方と知れると十津川に滞在し、更に吉野に逃れます。当時の吉野は修験道場として多数の僧兵を擁する一大権門でしたが、護良親王を匿うことでのちに後醍醐天皇を迎える下地となったと思われます。
吉野で楠木正成に呼応して元弘3年(1333年)に挙兵した護良親王ですが、幕府方の攻撃を受けて陥落してしまいます。その後は高野山に逃れ、幕府方と交戦しているうちに足利尊氏が六波羅探題を攻略し、鎌倉幕府もまた滅亡のときを迎えます。護良親王は足利尊氏を牽制して信貴山に陣取り上洛を拒んだとされています。
こうしてみますと、護良親王は後醍醐天皇に代わって令旨を発して自ら軍勢を集めていますが、いずれも幕府方に勝利は出来ませんでした。恐らくは集まった兵たちは寄せ集めで、組織化された幕府方には歯が立たなかったと思われます。護良親王は武功がなく、足利尊氏を倒すことで武功を上げようとしたとも言えるのではないかと思います。
護良親王が武功をあげたかったのは、武家に代わって自らで武士たちを統率したかったからと思われます。これは公家が武家を統率すべきという後醍醐天皇の考えと同じでした。ところが、このことは後醍醐天皇には護良親王の野心を疑われ、足利尊氏とは激しい対立を引き起こします。
しかしながら、後醍醐天皇は足利尊氏との対立を許しませんでした。結果的に、足利尊氏の圧倒的な武威と対立した護良親王は、排除される運命であったと言えるのではないかと思います。