南朝の皇居 | 中世史討論会

中世史討論会

日本の中世史について素人の視点から討論する材料を提供したいと考えています。将来的には、専門家の招聘や討論会の開催を目指しています。
なお、当ブログでは諸説あるもの含めて煩雑さを避けるため一つの説に拠っていますが、その辺もコメントしていけるとありがたいです。

南朝とは、建武4年(1337年)に後醍醐天皇が吉野に樹立した朝廷のことです。明徳3年(1392年)、足利義満による南北朝合一が行われる時点までの56年にわたって京都に存在した北朝と併存していました。いわば天皇が同時期に2人存在した時代ということになり、これは日本の歴史においてもこの時期に限られたことです。


南朝は成立時点では吉野に皇居がありました。具体的には、まず吉水院を行在所とされました。吉水院には今でも後醍醐天皇の玉座が飾られています。その後、手狭であったことから翌春に実城寺を皇居としました。金峯山から西側に下ったところ今は南朝妙法殿のあるところです。


ところが、正平2年(1347年)に楠木正行が四條畷で戦死すると吉野では防ぎきれないと判断した南朝は、賀名生に皇居を移します。吉野に皇居があった期間は10年間で、二度と戻ることはありませんでした。


その後は正平一統(1352年)で一時は男山に移動します。正平9年(1354年)には金剛寺に移動し、正平14年(1359年)には歓心寺に移動しました。金剛寺と歓心寺はいずれも現在は河内長野市内ですが、歓心寺の方が山深い地にあるのが分かります。また、ここは楠木氏の勢力地とされ、南朝自体が楠木氏頼みになっていたことも分かります。


ところが、楠木正儀は北朝との和平を主張し、長慶天皇と対立してしまいます。その結果、楠木正儀が北朝に降ってしまうと金剛寺は陥落し、文中2年(1373年)に賀名生に戻ることになりました。主力の武士と対立して追放されると言う図式が、まさに後醍醐天皇と同じなのです。そして、その後は南北朝合一の時まで賀名生から移動しませんでした。


皇居の滞在時間からすると、賀名生26年(1347-1354・1373-1392) 、歓心寺14年(1359-1373)、吉野10年(1337-1347)、金剛寺6年(1354-1359)となります。南朝の歴史のうち約半分が賀名生に皇居があった期間なのです。