この一週間、カウンターパンチの日々である。
午前中だけの仕事に疲れ、今さっきまで泥のように眠っていた。
これじゃあいかん。
再起・再起・再起
と書く自分がウザク感じるときもある。
自分を卑下しまくったり、愚痴ばかりの奴が、
自分は一番嫌いなのに、自分自身がそう陥っている。
と、これじゃいけないので、すべては自分次第なので
スルーするところはスルーし
考えるステージでないものは、とっととやり
真剣に向かい合うところは向かい合い
結論出すとことは出し
やるべきことはやりたい
(やっぱ、少しウザイな)。
●都留重人氏死去
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/obituary/?1139316831
ご冥福をお祈りします。
ケインズ経済学者(ニューディール政策など)の第一人者というか日本に広めた人、
ケインズ経済学ということは、経済政策の第一人者が死去されたとのこと。
いわゆる「政府積極介入&公共投資・事業」「大きな政府」ってやつでしょうか?
まもなく39歳の僕は、年齢的に
高校・大学・社会人初期を
ケインズ経済学を激しく否定する
『サプライサイド経済学』(J・ギルダーの「富と貧困」はたしか当時大ベストセラー)
『マネタリズム』(R・フリードマンの「選択の自由」も大ベストセラー)
の台頭のなか過ごした。
この2つ、
一言で言うと(多分専門でやっている人に「違う!」っていわれそう)
『小さな政府』『規制緩和』『競争と活力』『政府非介入』『反公共投資・事業』
ってやつでしょうか。
『サッチャーイズム』『レーガノミックス』『中曽根行革』の理論的支柱として
今に至るまで、大きな影響を与えているのでしょう。
ということで、逆にケインズ経済学が「攻撃相手」として再注目された時期だったと思う。
また、当時の高校の政経の教科書や大学での「経済原論」系では
当然、ギルダーやフリードマンが間に合うわけもなく
PV曲線を学び
「原始資本主義経済→独占資本主義→修正資本主義(いわゆるケインズ経済学)(国家独占資本主義ってか)」
てな流れを学んだわけです。
その中は、どっちかというと、「ケインズ経済学」は善として、一つの進化の完成系として教えられていた感がありました。
以上のような時代的に
マネタリズムなどが話題になったこと、そして、受験で高校の政経を学ぶため
という2つの要因から、
ケインズ経済学をかじる必要があり、勉強に使った本が
サムエルソン 経済学(岩波・都留重人訳)
経済学を勉強する者が一度は必ず見たことがあるのが本著。
昔は近代経済学(ケインズ&新古典派系)のテキストのテキストと呼ばれた本。
上下二巻で分厚いけど、二色刷りで製本もソフトで
分かりやすく、読みやすい本。
非常に勉強し理解するのに助かりました。
変な話ですが、僕の受験と経済学(当時)のバイブル。
いわゆる、
ケインズベースだった、当時の高校の政経や原論の内容は網羅されていました。
内容の真偽はともかく、当時の大学受験で政経を専攻するものには
超オススメで、
のちに、受験生によくすすめたものでした。
あと、20世紀前半の歴史(特に戦前・戦中・戦後)を学ぶにも
各国の経済的側面から見た政策・歴史の流れ(統制経済などなど)を理解するのにも
よかったかな。
そっからです。
都留重人氏を知り、学ばせてもらったのは。
その後の僕は、
世間の流れにものって、
ケインズ経済学系の矛盾点を突く、マネタリストたちの考えに
『へー』と感心しながら、過ごしました。
そして、
実際、社会に出てから、次第に
これらマクロ経済学、いや、経済学そのものが持つ
「科学性」というやつと
「人間の経済的判断基準をマシーンのようにしか見ない体質(経済的合理的判断基準の絶対視)
(人は、必ず、より安く、より自分にとって利潤・利益のあるほうにしか選択せず行動しない、っていうやつ)」
に違和感を持つようになりました。
別に、人間は愛だ、とか、ヒューマニズム、とか、連帯とかいう
70年安保や市民運動系の発想ではありません。
単に、ビジネスの現場にいてて、
ビジネスベース(経済活動)で見て、よりビジネスをうまくしようと考える中で
経済的合理的判断基準の絶対性では考えれない動きを
多々、実感したわけです。
極論いうと、全国、自動販売機とディスカウントにしても、なぜかうまくいかない、ってやつかな。
あと、経済学とは少し離れますが
90年初期の大手外資コンサルが推進した
「科学的管理方法」って奴も体験して、うまくいかないのも痛感したことも大きいかも。
そんな中、大学院で、現在の経営学を知ることができ
まさに「目にウロコ」の日々でした。
「経済学(マル経→ケインズ&新古典系)」から「経営学」へと
今の僕の発想ベースは、大きく動きました。
