最近になって
祈りのパワーの重要性を
実感している。
無宗教ながら
祈りの先に存在するのは
無数に在られる大いなる存在たち。
日本で言うところの
八百万の神
と表現してもいいかもしれない。
あるいは
大天使
と呼ばれる存在でもいい。
私の場合
ある特定の存在との契約は
もはや忘れてしまった。
契約というよりは
約束
と言ったほうが
しっくりくるかも。
もう自分を解放させようと
決めてからは
頑なに約束を守ろうなどと
考えなくなった。
いつかの約束は
魂が知っているからね。
知らず知らずに
辿り着けると信じて
すべて
自分の本質に委ねてみた。
ガチガチに固めて生まれて来た
自らの役目。
それらに忠実であることが
ある意味
どうでもいいと
思えるようになった
ある日。
もう自分へ還ろうと
決めた。
なぜなら
長いこと付いて回ってくる
人様の不要なものを
大事にしてツラくなるより
自分の命を生きようと
思ったから。
その根っこにあったのが
幼少期から
人の感情や思考に
敏感だったために
人と接することが苦手
ということ。
いわゆる会話をしての
意思の疎通が
苦痛でならなかったのだ。
要らない情報が
入り込み過ぎて
相手が言葉にしていないことを
つい口に出して
気味悪がられたり。
言葉を発すること自体が
恐怖の毎日。
そんな幼少期だっただけに
小学生以前の記憶は
ほとんどと言って
ないに等しい。
その原因が
どこから来ていたかは
理解して
随分昔に解決している。
完全ではないものの
自分で解決できること
という
意味において、ね。
俗に言う
虐待やら何やら
といった
絵に描いたような
家庭問題はなかったことが
唯一の救いだったように
思う。
とはいえ
親子関係においての
盲点になりやすい
繊細な部分は
今になっても
完全なる解決はしていない。
おそらく
似たケースは無意識に
多くの人が体験していて
完全なる解決ができた
と聞いた話しが
ほとんどない気がする。
それでも
生まれ育った土地を
遠く離れ
家族の存在や
故郷と呼べる街があることが
ただただ
有難く思える今日この頃。
ちなみに
我が家では日々の食前に
感謝の祈りをしてから
食事をしている。
その際に
大いなる存在への感謝はもとより
遠く離れた家族や
陰ながら支えてくれる
人たちへの感謝も
忘れない。
祈りとは
特別なものでもなく
願い事をすることでもない。
ただ
今こうして
在ることを実感する
再確認の時間のように
思える。
誰もが幸せで在る
今を
瞬間瞬間に
選べるよう潜在意識へ
深く刻む。
現実は
潜在意識によって
変わることを
今更ながら
実感しているから。
祈りの根源にあるものは
潜在意識
そのものかもしれない。

