
反骨と発明とユーモア
それがヒップホップの三大精神だと思う。
というか、逆に言えば<反骨と発明とユーモア>という要素さえあれば、別にヒップホップでなくてもかまわない。
クラシック作品であってもいいし、ひょっとしたら長唄や浄瑠璃であってもいいのだ。
少なくとも僕はヒップホップという形式にこだわっている人の気がしれないし、そういうこだわりが持つ狭苦しさは反ヒップホップ的だと思うのである。
さらにヒップホップの三大精神が鋭い社会意識の上に乗っかっていることも重要な事実だろう。
社会意識のない場所で<反骨と発明とユーモア>を貫いていても、それはヒップホップではない。
むしろ他の音楽分野に席を譲らなければならなくなるはずだ。
だから、僕は例えばベックこそがヒップホップ精神の塊だと思う。
だいたい、どう見てもあの顔は武満徹の生まれ変わりみたいな具合だし、<反骨と発明とユーモア>の嵐のような音楽と詞を作り続けているからだ。
だが、現在の日本のヒップホップはまだベックひとり生み出せていない。
ブレイクスルーしそうな雰囲気には度々なるのだけど、村人みたいな意識がどこからか邪魔をして自由を奪ってしまう。
そうそう、その自由というものと都会的意識もヒップホップの大切な要素だった。
そいつを忘れちゃ何も出来ない。
こだわらない、と自己反省も含めて書いておきたい。あれこれとヒップホップ精神を数え上げたあげく、最終的にはこだわらないこと。
しかし、こだわらず自由でいることは至難の業である。
自由になったつもりでも必ず誰かの真似になっている。
不自由さの檻の中で小さな自由を満喫していることになる。
日本には禅があるのになぜ誰もそれを使わないのだろうか。
ヒップホップは禅僧が社会に出て自由を実践して回るような音楽だというのに。
果てしない自由さで世の中を変えようとする運動。
それがヒップホップだというのに。
で、禅はこう教えている。
父母に会ったら父母を殺し、師に会ったら師を殺し、釈迦に会ったら釈迦を殺せ。
むろん殺す勢いで乗り越えろという意味である。
こだわらず超越しろという意味である。
本当に殺してしまうとしたら、それは相手にこだわりを持ってしまった証拠だ。
ださい。
だとすれば、こういう風にも言えるだろう。
ヒップホップに会ったらヒップホップを殺せ。
それがヒップホップだ、と。
自由。
文:いとうせいこう
ーSPACE SHOWER TV『ヒップホップロワイヤルタイムス』2000年ー