RYUICHI SAKAMOTO - KOKO
最近は、皆さん、簡単に「愛してるよ」とか「私、恋してるの」などと、まるであいさつのように「愛」とか「恋」とかを口にします。しかし、果たしてどれくらいの方が「愛」と「恋」の違いを理解しているでしょう。世の中のほとんどの人は、どんぶり勘定で同じものだと思っているのです。本当は全く違うものなのに。
「恋愛」という言葉があるように、まず恋ありきなのです。その後、愛が生まれるのです。実は恋から始まって愛の領域に到達すればしめたものということです。それではまず恋とは何かということです。好きな人ができると男でも女でも「恋しい恋しい、会いたい会いたい」と思うようになります。でも、その気持ちはあくまでも自分勝手、相手の気持ちや都合は全く斟酌(しんしゃく)していない一方的な感情なのです。
あの人の目が好き、唇が好き、体つきが好き、そして、抱きたい、抱かれたい、エッチがしたい、あの人の肉体を自分のものにしたいとか、己の欲望のために相手を必要とする、それが「恋」なのです。言うなれば、自分勝手な気持ちの押し売りなのです。
たとえば、恋人と待ち合わせをしてなかなか相手が来ない、すると、「こんなに自分を待たせて何やってんだ」「誰か他の人と浮気でもしてるんじゃないか」とか、待たされている自分のプライドや気持ちばかり考えるのです。ホレた相手に好きな男でもできようものなら、どんなに相手が幸せだろうがそんなことは知ったこっちゃない、裏切られたという自分のことだけで頭がいっぱい、「絶対に許さない」「殺してやりたい」というほど憎しみがわくのです。そのくせ「百年の恋も冷める」という言葉もあるように、それまで恋しいと思っていた人のちょっとしたしぐさや癖、足がくさいとか、スープの飲み方が下品だとか、いびきをかくとか、何でもないようなことでスーッと冷めてしまう。それも「恋」です。
すべて自己本位。一番大切なのは自分自身、あくまで自分のために相手を求めるのが「恋」なのです。
すべてはその「恋」から始まるのです。そして、次は「恋愛中」になるのです。そうなると、今度はたとえ待ち合わせで相手がなかなか来なくても、「何かあったのかしら」「無理させたんじゃなかろうか」「交通事故に遭ってやしないだろうか」などと、相手のことも考えるようになるのです。遅れても無事に来てくれたことの喜びで、待たされた自分の怒りなんて吹っ飛んでしまう。その自己本位と相手本位の間で揺れ動くのが「恋愛中」ということなのです。
「恋愛中」からさらに発展すると、いよいよ「愛」の領域に入るわけです。ここまで来ればしめたものです。しかし、いかなるジャンルでも名人や達人にはそうそうなれるものではないように、誰もが一朝一夕には到達できる世界ではありません。「愛」を知るとはどういうことか、先ほど挙げた例をとれば、好きな人に新しい恋人ができた、可愛さあまって憎さ百倍だったそれまでとは違って、もうジェラシーも起こらない。憎くもない。打ち明けられた時に多少の寂しさ悲しさは感じますが、相手の幸せそうな顔を見れば「こんなにこの人が幸福ならこれでいいじゃないか」「この人を幸せにしてくれた人にお礼が言いたい」などと、実に寛大な心になるのです。
万一、自分の元から去ってしまった相手が、再び傷ついて戻って来た時も、「あなたの席はずっと空いてますよ。いつでも帰って来ていいんですよ。」と、その人のために何かしなくてはいけないと思うようになるのです。決して何かしてあげるという気持ちではありません。相手の欠点だろうが、ウソだろうが、裏切りだろうが、すべてを許して受け入れる、それが「愛」なのです。相手に対して何の要求もしない、これが「無償の愛」です。子どもにすべてを与え続け、たとえ子どもからどんなひどい仕打ちを受けてもほほえんで許す、親の愛はまさに「無償の愛」の代表なのです。
真実の「愛」を知る人の心は、感情の起伏がなくとても穏やかで、まさに大きな海、どこでも広がる青い空のようなものなのです。そして、時とともに深まり広くなるものなのです。毎朝、ニュースや新聞を見れば、男と女の別れ話のもつれや情痴怨恨沙汰のオンパレード。こんな事件を起こすのは、ただのスケベジジイ、スケベババアだからなのです。「愛」のない我欲だけのわびしい人間なのです。
美輪明宏