魏志倭人伝にある「邪馬台国」とは何処にあったのか? | CASCADE MASASHIオフィシャルブログ「井戸水をヒトクチ」Powered by Ameba

魏志倭人伝にある「邪馬台国」とは何処にあったのか?


「邪馬台国は何処にあったのだと思いますか?」という質問にお答えします。

3世紀に存在したと言われる卑弥呼が治めた国。いまだにその場所は特定されていません。魏志倭人伝にその場所に行く方法が記載されてますが、その通りに追って行くと鹿児島のはるか南方の海上になってしまいます。当時中国は三国志時代で、魏としては呉を挟み撃ちにする意味でもその海の向こうの国を従える必要があった。魏から見て呉を挟み撃ちに出来る向こう側の国、くらいの認識だったのでその国までの距離感はあいまい。確かに魏から見て呉を挟み撃ち出来る国の場所としては、鹿児島からはるか南方の海の上あたりになる。

はたして邪馬台国は何処か?

色々な案が出され今は、大陸に近く貿易も盛んだった九州説(吉野ヶ里遺跡)や、地理的な利便性から、その後のヤマト王権に続いていったからとする畿内説(纏向遺跡)の2大説に落ち着いてはいるけど、まだ、ハッキリしてない。

吉野ヶ里遺跡からは鉄器などが多数出土し、纏向遺跡からは魏が卑弥呼に送ったとされるような銅鏡?(だけど、中国産か日本産か不明なため、それと特定されていない)が多数出土しているので、

俺が思うには、

鉄器などが多く出土したのは、貿易が盛んでそれに伴い九州が発展した証しで、銅鏡が多く出土したのは、銅鏡とは政治的な意味合いが強くその地が政治の中心だった可能性のある証し。
なので、どちらも同時期に発展していた場所で、そして、どちらも卑弥呼が治めていた邪馬台国かもよ、って思う。時には九州へ、時には畿内へ行ったりなんかして。

でも卑弥呼が常駐していた方でそれを邪馬台国とするなら、畿内説が政治的な匂いがするからそっちかなぁ。纏向遺跡が卑弥呼の墓かは分かりませんが。

でも、実は、九州でもなく畿内でもなく、全然違う所だったりして。えへへ。