善意の押し付け
このことについては、後日あらためてお伝えしたいと思いますが、
自分なりの考えをしっかり述べておきたいと思います。
社会貢献に取り組んでいると、必ずこの「善意の押し付けではないのか」
という疑問と葛藤することになります。
実際、ここ数年で「社会貢献」はもはやブームの域に達してきました。
ローマクラブが『成長の限界』を発表したのは1972年のことですが、
ついこの間まで、具体的にはサブプライムショックがあった2007年末まで、
世の中は「財テク」だの、「デイトレード」だの、「FX」だの、
「富裕層マーケティング」だの、「ヒルズ族」だの、
そんなものばかりに目を奪われていたように記憶しています。
とはいえ、さすがでしょうか、若い人はそんな企業文化に早々と
見切りをつけ、「エコ」を中心にソーシャルな活動に興味を持つ人が
増えていました。ピークはアル・ゴア元アメリカ合衆国副大統領に
よる書籍『不都合な真実』が出回った2006年~2007年でしょうか。
そして最近では、震災によって「チャリティ元年」などと呼ばれているようです。
そんな薄っぺらい言葉でまるめられ、皆が納得した気になることを
個人的には懸念しているのですが、ブームはブームで多くの人に認知されるわけで、
「認知」よりすべてのコミュニケーションは始まるわけですから、
時代は一歩進んだ、と私はプラス考えております。
(コミュニケーションの学校はそれをさらに100倍のスピードにしようと
企んでいるわけですが笑)
話は戻り、社会貢献において、よくありがちなのは、
サポートする側が驕りになっているケースが少なくないことだと思います。
いちばんわかりやすい例では、行政などのハコモノでしょう。
文化施設を作ったり、単発イベントを開いたり、助成金をばら撒いたり。
これらに共通するのは「サステナビリティ(将来にわたって持続できるか)」
の欠如であって、砂に水をまいているのと変わりません。
そこで、「当事者意識」がポイントになってくるのですけれども、
これがとにかく奥が深い。サポートする側とサポートされる側には、
なんだかんだで上下関係的なものが生まれてしまうため、
この溝を埋めるにはどれだけ「信頼関係」が育めるかにかかってしまいます。
そして、サポートすることの本質を理解するセンスも重要になります。
たとえば、フェアトレード。
コーヒー豆に寄付金をくっつけて割高で販売している手法ですが、
ある企業では農場そのものに入り込んで「高品質なコーヒー豆」の作り方を
教育し、その結果「寄付」抜きで高額に買い取ることができるという
ような仕組みを実現しているところがあるそうです。
先日お会いした、海苔の老舗企業さんも、同様の方法を取っていました。
たとえば、福祉施設。
なかには「おもてなしの心」を掲げ、スタッフが「靴を効率的に履かせる」
など、至れり尽くせりのサービスを提供しているところがあります。
一方で、「どんなに時間がかかっても、もどかしくても、本人ができること
をやらせるのが重要なこと。それが自立であり、生きるということ」という
理念で、あまり手出ししない方法で取り組んでいるところもあります。
「手伝うことは良いことだ」
「配慮することは優しさだ」
「相手は困っているはずだ」
「社会貢献は絶対の正義だ」
こういう発想は、なんだか本質とは違うような気がしております。
場合によっては「危険」ですらあるように思います。
(心の傷で社会貢献に取り組んでいる人も多く、そういうタイプの人に
ついては、またいつか書こうと思います)
とはいっても、見て見ぬする人や、口だけの人、逆に攻撃ばかりする人、
そして「そもそも知らない無知な人」よりは余程ステキだと感じます。
おせっかい、ありがた迷惑、
これは人間社会ではつきものではあります。
バランス感覚を持たなければなぁ、と私たちはいつも考えています。
自分なりの考えをしっかり述べておきたいと思います。
社会貢献に取り組んでいると、必ずこの「善意の押し付けではないのか」
という疑問と葛藤することになります。
実際、ここ数年で「社会貢献」はもはやブームの域に達してきました。
ローマクラブが『成長の限界』を発表したのは1972年のことですが、
ついこの間まで、具体的にはサブプライムショックがあった2007年末まで、
世の中は「財テク」だの、「デイトレード」だの、「FX」だの、
「富裕層マーケティング」だの、「ヒルズ族」だの、
そんなものばかりに目を奪われていたように記憶しています。
とはいえ、さすがでしょうか、若い人はそんな企業文化に早々と
見切りをつけ、「エコ」を中心にソーシャルな活動に興味を持つ人が
増えていました。ピークはアル・ゴア元アメリカ合衆国副大統領に
よる書籍『不都合な真実』が出回った2006年~2007年でしょうか。
そして最近では、震災によって「チャリティ元年」などと呼ばれているようです。
そんな薄っぺらい言葉でまるめられ、皆が納得した気になることを
個人的には懸念しているのですが、ブームはブームで多くの人に認知されるわけで、
「認知」よりすべてのコミュニケーションは始まるわけですから、
時代は一歩進んだ、と私はプラス考えております。
(コミュニケーションの学校はそれをさらに100倍のスピードにしようと
企んでいるわけですが笑)
話は戻り、社会貢献において、よくありがちなのは、
サポートする側が驕りになっているケースが少なくないことだと思います。
いちばんわかりやすい例では、行政などのハコモノでしょう。
文化施設を作ったり、単発イベントを開いたり、助成金をばら撒いたり。
これらに共通するのは「サステナビリティ(将来にわたって持続できるか)」
の欠如であって、砂に水をまいているのと変わりません。
そこで、「当事者意識」がポイントになってくるのですけれども、
これがとにかく奥が深い。サポートする側とサポートされる側には、
なんだかんだで上下関係的なものが生まれてしまうため、
この溝を埋めるにはどれだけ「信頼関係」が育めるかにかかってしまいます。
そして、サポートすることの本質を理解するセンスも重要になります。
たとえば、フェアトレード。
コーヒー豆に寄付金をくっつけて割高で販売している手法ですが、
ある企業では農場そのものに入り込んで「高品質なコーヒー豆」の作り方を
教育し、その結果「寄付」抜きで高額に買い取ることができるという
ような仕組みを実現しているところがあるそうです。
先日お会いした、海苔の老舗企業さんも、同様の方法を取っていました。
たとえば、福祉施設。
なかには「おもてなしの心」を掲げ、スタッフが「靴を効率的に履かせる」
など、至れり尽くせりのサービスを提供しているところがあります。
一方で、「どんなに時間がかかっても、もどかしくても、本人ができること
をやらせるのが重要なこと。それが自立であり、生きるということ」という
理念で、あまり手出ししない方法で取り組んでいるところもあります。
「手伝うことは良いことだ」
「配慮することは優しさだ」
「相手は困っているはずだ」
「社会貢献は絶対の正義だ」
こういう発想は、なんだか本質とは違うような気がしております。
場合によっては「危険」ですらあるように思います。
(心の傷で社会貢献に取り組んでいる人も多く、そういうタイプの人に
ついては、またいつか書こうと思います)
とはいっても、見て見ぬする人や、口だけの人、逆に攻撃ばかりする人、
そして「そもそも知らない無知な人」よりは余程ステキだと感じます。
おせっかい、ありがた迷惑、
これは人間社会ではつきものではあります。
バランス感覚を持たなければなぁ、と私たちはいつも考えています。